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合気評論12

盛平氏(当時25歳)が明治41年7月に免許を受けたという柳生流柔術は、吉祥丸氏の著書によると、中井正勝の推薦により同流の免許皆伝を得たと記されていますが、中井正勝の流儀は柳生心眼流であり、吉祥丸氏は盛平翁から聞き誤ったのであろう。なお、柳生心眼流とは、体術(拳法を含む)・剣・棒があり、現在の宗家は第二十八世佐藤柔心斎です。(補足説明:その後、昭和58年に出版された『合気道(サンケイ出版)』ではこの部分、柳生心眼流に修正されています。)

盛平(髙守)氏は、昭和3年ごろ講道館主嘉納治五郎氏の訪問を受けた。そのころ盛平氏は、武田流で使用していた「相気之術」からヒントを得て、大本教の推薦武道として「相生流」と称していました。
吉祥丸氏の著書によると「相生流」を修得したと記されています。ところで、日本における各流武道の種類は非常に多く、現在までに判明しているものだけで6,100種ほどありますが、「相生流」なる流派は、この世に実在していた証拠はございません。戦後に植芝翁門下となった師範は、吉祥丸氏の著書を最高の教科書として、勝手に推察し、植芝翁が自家に伝わっていた古流家宝の柔術である、とまで説明しているあわて者まで出てくる始末であります。私(鶴山先生)には植芝門下生には、知性も研究心もない師範がいかに多いものかと、あきれております。歴史的事実を無視し勝手に創作するなど、歴史を冒涜すること甚だしい限りです。植芝門下生は、この世に歴史学なる学問は必要がないとでも考えているのでしょうか。

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