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北辰一刀流と北斗七星(上)

北辰一刀流に関する鶴山先生のメモです。
 
幕末期に創始された千葉周作(当時29歳)の北辰一刀流剣術は、その内容から見ても、小野派から出た中西流(中西派一刀流)の撃剣を用い、小野派一刀流の技名も継承していることから、小野派一刀流の剣術を周作の視点で簡略化したものといえる。

周作は、経営者としての才能もあったようで、切紙3年、目録10年の古武道の原則を破り、実質3年で目録を出して(1週間で師範印可の現代の八光流と同質のものである。)いた。そのためには八光流と同じく立派な巻物が必要だということで、小野派一刀流の巻物を参考として北辰一刀流の巻物を作った。小野派一刀流が密教を教伝するのに対し、北辰一刀流では中国に古くある北斗七星(武運を守るとされる妙見信仰)をその基礎理念に持ってきた。

周作の道場は玄武館といって、最初日本橋にあったが、神田お玉が池に移転し、総桧(ひのき)1,000畳敷の道場で日本中を沸かせたという。その人気は、面・小手・竹刀の打ち合い稽古である撃剣だから、だけではなかった。その一つは、練習を公開したこと。これは古流では考えられないことであった。その二つ目は、広い道場で集団稽古をしたこと。これも古流では考えられない稽古法であった。このことには、現代の空手や合気道の衆団稽古に通ずるものがある。

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