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骨法の堀辺が来た(続)16

(承前T君のレポート)
そして、手首等を痛めた吉丸氏が堀辺氏の治療所に行ったのでした。治療中の話しから吉丸氏の経歴を知った堀辺氏が、吉丸貞氏から佐川系大東流合気柔術を習うことになったのです。

最初のうちは治療所の休み時間に大東流の教伝を受けていた堀辺氏だが、どうせ同じ時間を使うなら治療所を使ってよいから公開指導してはどうか、という話しに発展し「大東流伝合気道」の看板を東中野駅のホームから見える場所に立てたのです。
ところが、大看板を出したものの、思ったように人が集まらず道場の運営費もままならぬ状態に至りました。そこでいろいろと再建策を考えた結果、大東流や合気道という名称では人が集まらない、もっと斬新な魅力的なネーミングが必要ということになったのです。

そこには、合気柔術だけでは最近流行の突き蹴りを主体とする武術(空手・中国拳法・キックボクシング等)の人気に対応することは難しい、かといって、大東流合気柔術の逆技・投技もうまく掛かれば相手へのダメージが大きいので捨てがたい、という思惑があったのでした。そこで吉丸氏の本業であった空手技を“剛”、佐川派大東流を“柔”として柔剛一体の新武術を創作したのです。

このような構想のもと、準備期間1年で、新流派の名称・伝承系路・系図・理論付け等々行い、それらしく作り上げました。知人から聞いたところによると、堀辺氏と袂を分かった後「換骨拳は何から何まで我々がでっち上げたもの」と語っていたそうです。この発想法は、宗道臣が作り上げた「日本少林寺拳法」と同じものです。(続)

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