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秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 11

大東流は会津藩内の秘伝技のことで、秘密主義をとっていたことから、多くの憶測を呼びました。
例えば、武田先生は全国各地を武者修行で回られたことから、大東流は諸流を統合して武田先生が創設したものであるということをいう方もいるようです。しかしながら、大東流合気柔術は一人の人間がそんなに簡単に創始できるような技法ではありません。会津日新館において諸流武術が総合武術として整理集約されたもので、技法となり口伝を付して整備されたものであります。
大東流の源体となったものは、甲斐源氏武田家に伝えられたもので、会津武田始祖、武田土佐守国継以来家伝の秘法技として代々伝えられたものでありました。幕末ごろには武田惣右衛門より西郷頼母に伝えられたものであります。
幕末の動乱、松平容保公の京都守護職就任、明治維新、戊辰戦争で藩公にこれを完全に伝えることが出来なかったことから、この技法の絶えるのを恐れ、責任を感じ、明治31年保科近悳(ちかのり、旧会津藩家老西郷頼母)は武田惣角に大東流合気柔術の解釈総伝を伝えたのであります。また、この解釈総伝を受けた期間が半年ばかりでありますから、大東流は西郷頼母から伝えられたものではないという研究者もいるようですが、これは誤りです。解釈総伝は理合の原理と、技法の目的、伝承の系路、大系的技法の口伝、活殺秘法等のものでありまして、家伝の大東流は父惣吉から習っておりました。
この先、解釈総伝に関する話が始まりますが、その内容は、「武田惣角の二つの宝物(上)」に記載したものと重なりますので、省略します。(この項 完)

解説 西郷頼母(保科近悳)については、その写真を見て武術の達人ではないとか、伝書に頼母の名前がないことから、大東流の命名だけに関与しただけとか、言われています。
まず、頼母は、溝口派小野派一刀流の免許皆伝、大坪流柔術、長沼流兵法の皆伝者でしたから、武術の素人ということはありません。頼母の役割は公武合体責任藩の国家老として日新館武術のプロジェクトマネージャだったのです。大東流技法(編成当時名称がなかったもの)幕末期の完成は会津藩だけの力でできるものではありませんでした。東北26連合のほとんど藩が日新館の武芸統一作業に協力したものと考えられています。大東流の膨大な技法群、巧みな構成、内包する術理の種類、思考法等々実際にこれらを知れば、頼母一人で作れるものではなく、まして武士ではなかった惣角の創造ということは考えられない、ということは自明です。なお、幕末当時、実力のある藩は独自に総合武道化を推進していて、盛岡藩の諸賞流(しょしょうりゅう)などが有名です。

惣角が頼母の所を尋ねたのは6か月ほど、こんな短い期間で膨大な大東流技法の指導を受け、技を覚えられるハズがない、との意見もあります。それは、そのとおりです。
頼母は大東流の取りまとめ責任者でありましたから、大東流のコンセプトからその全容を把握していた唯一の人物だったのです。実際の技法は例えば、柔術なら「柔術ワーキンググループ」の、合気柔術なら「合気柔術ワーキンググループ」のリーダーないし実質的責任者を指示して、惣角に伝授するよう手紙をも持たせ向わせたのです。 
では、惣角に指導した人達はなぜ惣角以外に教えなかった、という疑問があるかも知れません。これらリーダーないし実質的責任者は上級武士であり、その後も賊軍であっても各方面で活躍したからでした。想像してみてください、社運を賭けた或いは首長からの指示によるプロジェクトには例え若くても優秀な人材が充てられることは、現在でも同じだと思います。
頼母は、失伝する運命にあった公武合体後の新武術の伝承者=惣角を見いだし、大東流と命名をするとともに、その伝説を創作し、伝書の形式も整え、種々の指示とともに惣角に託したのです。しかしながら、偉大な知識人であった頼母も伝書にちょっとしたミスを犯しています。惣角の前に名前があるのは武田惣右衛門ですが、この人が死んで90年後に惣角の名前となるのです。この間の伝承者は誰か?と後世の人たちに突っ込まれる、というミスでした。

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