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合気柔術の技法2

大正11年綾部に武田惣角を呼んで教伝を受けるようになった理由は・・・、

大正10年に大本教第一次弾圧事件が起き、出口王仁三郎が逮捕されたことから、大本教幹部は不安になり、護身術習得の必要性を感じていた。そこで、簡単に覚えられ官憲に対抗できる武術=対柔道・対剣道(当時の官憲は柔道・剣道が必修であり、その習慣は現在に残っている)として最適なものを、と植芝盛平が惣角を招聘し、大正11年4月から半年間教伝を受けることとなったのである。惣角が江戸柳生系合気柔術の手ほどき(現在の植芝合気)を公開指導したのはこの時が始めてで、浅野正恭中将・出口すみ・谷口雅春(生長の家)・岡田茂吉(世界救世(メシヤ)教)等が習っている。

ところで、大東流の柔術、合気柔術の区分は階級によってなされていた。第一線で闘う下級武士の技法としての柔術=第1・2か条60本は、そのほとんどが鎧組打ちの技であって、その中から今でいう中間管理職になった者が第3か条以降(小野派系の合気柔術)を習うのである。第1~3か条90本の内、合気柔術にならないものを除き、合気柔術として序破急の3段階に再構成し復習技法としたのである。また、これには簡易(省略)技法も含まれるので、御信用之手とされているのである。なお、家老の息子や若殿は第1戦の戦場には出ない、いわば後方勤務(参謀本部付き)であるから第1・2か条の柔術60本は習わない。

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