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会津紀行(雑感)19

会津武家屋敷には「西郷頼母伝」のパンフレットがあった。
その中に武田時宗の原稿があった。

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またもやデタラメである。いわく「神職にあった兄惣勝が明治9年春死去、同年秋祖父惣右衞門の高弟であった都々古別(つつこわけ)神社宮司西郷頼母改め保科近悳師の許で神職見習いに入る」明治9年というと惣角17歳である。宮司の修行、又は禰宜(ねぎ)の修行も読み書きは最低条件である。自分の名前も書けなかった惣角が17歳になって禰宜(宮司の補佐役)の修行でもあるまい。また、その次「間もなく、西郷隆盛の支援のため武者修行しながら西下して明治10年2月15日西郷隆盛挙兵の報に九州に急行するもすでに警戒厳しく目的果たせず」

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会津人は会津を賊軍として責めてきた西軍に憎しみがあった。西南戦争は戊辰戦争の復讐戦としての意味合いもあったのだ。西南戦争では巡査隊(警視隊)が編成され約1万人が従軍等している。政府が募集した対象には戊辰戦争で朝敵となった東北各県の士族も入っていた。士族は即戦力を期待されたのである。この臨時巡査の募集には多くの士族が応じた。西郷四郎が講道館を逃げ出したのも、この会津魂が生きていたからだ。こんなことを書いた理由は何か?後年、西郷南州の評価は上がった。時宗氏の少年時代は南州の全盛時代であった。南州を評価することで惣角にプラスになると思ったのだろうか。惣角が西南戦争以降九州方面に旅したことは確かであるが、これが西郷南州に関係したとは考えにくい。
「明治13年秋日光東照宮副宮司を勤めて居られた保科近悳師に身を寄せ会津藩伝来の秘奥御式内の伝授を受けながら・・・」明治13年というと、惣角21歳の時である。日光で会ったとすれば、御式内ではなく柔術をマスターするようにとのことか?もしそうだとしても明治28年まで剣術修行で回って歩いていただけに、この説も納得が出来ない。惣角が頼母をどういうイキサツで知っていたのか?片や元1700石の家老、片や百姓の身分の若者、当時であれば面会できるハズもない。

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