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武田惣角の二つの宝物(下)

もうひとつ惣角が肌身離さず持っていたのは、新陰流兵法の伝書「進履橋(しんりきょう)」でした。こちらが宝物の2です。この伝書については、鶴山先生が久琢磨から聞いた話のメモがあるので、それを紹介します。なお、このメモは鶴山先生の皆伝よりかなり前のもので、久先生から課題を課せられています。

進履橋

琢磨「調べたところ、盛平先生は大正11年に柳生流柔術の免許を武田先生からもらったことがわかった。」
琢磨「柳生流柔術とは、盛平先生が朝日で教えていた初伝技法のことであった。」
琢磨「何故柳生流柔術が大東流なのか、大東流合気柔術を何故柳生流柔術として、盛平先生に教えたのかは、(当時)朝日新聞福島支局に、会津藩における大東流伝承の調査をさせたところ、会津藩内にはそのような流派(大東流)はないが、柳生流剣術はあったらしいとの調査報告だったので、それ以上大東流について調べるのは悪いと思って、当時は武田先生にも聞くことはなかった。『合気柔術』の真実を知るためには、何故『柳生流柔術』と武田先生が言ったのか、また、印可状を植芝先生に渡したのか調べてみなさい。武田先生は信玄袋の中に新陰流の巻物を一本入れていた。それは特別に大切にしているもののようだった。他の巻物と比較すると最も古くだいぶ時代物である。何故、柳生新陰流の巻物を持っていたのかも、福島からの報告を受けたので、聴くことが出来なかった。」
琢磨「大東流の中で、私が免許皆伝を貰った『合気柔術』は、柳生流柔術に関係があり、その原型は柳生流剣術である。しかし、武田先生は小野派一刀流はやったが柳生流剣術はやっていない。この辺りに大東流誕生の秘密があると思う。」

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