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西郷頼母と国家老(上)

「江戸家老は本社専務取締役、国家老は会津農園の代表にして工場長」と鶴山先生が比喩した会津藩の特殊事情から、藩が滅亡する戊辰戦争に巻き込まれていく原因の一つであった京都守護職への就任とその藩内事情、会津藩を、そして徳川家を守りたかった西郷頼母の思いに関する鶴山先生のメモです。この原稿では省略しましたが、鶴山先生は江戸家老と国家老の任免に関する頼母の不満、養子であった藩主容保(かたもり)の無用の頑張りに対する複雑な思いがあったと、あります。

家老とは、大名の家臣の中で藩政を総括した者であり、諸藩では家老数名をおいて藩政を執行した。領地在勤の者を国家老、江戸藩邸在勤の者を江戸家老と呼んだ。
さて、30歳で家老になっていた西郷頼母の名が歴史上知られるようになったのは、文久2(1862)年藩主松平容保(当時26歳)に京都守護職の内命が下った際、江戸家老横山常徳(主税)、国家老田中土佐などと江戸において評議を行い反対意見を述べたときからであった。頼母(当時33歳)は翌文久3年には、上洛し容保に守護職辞職を求めるが容れられず、家老を辞した。その後5年間の蟄居(ちっきょ)後、家老に復職しているが、そんなことが出来るのであろうか。疑問が残る。
西郷家は会津藩祖である保科正之(三代将軍家光の異母弟)の分家で、代々筆頭家老の家柄であった。会津藩の江戸における上屋敷は、和田倉御門内、御城本丸近くにあり、頼母はここで誕生し、27歳まで暮らしていた。会津藩江戸家老の仕事は、将軍の相談役として諸調整、根回しを行うことであった。また、保科正之は十五か条の家訓つくり、その第一条では、会津藩は他藩がどうあろうと、将軍家に忠義をつくす藩だと位置づけている。

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