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『武道論考』批判3

同氏は「武道の技術観について要約」しており、それは次のとおりである。

日本においては、そもそも技術、技能などの明確な技術概念はなく、現在でもそれらを混同して用いることが多い。日本においては、対象とする運動を何らかの形で分析したり組織したりして、客観的に伝達可能な技術として伝達するのではなく、ひとまとまりの運動としての「型」に自己の身体をはめ込んでゆくという方法で学習されてきた。

武道の技においては、「間」「呼吸」「気」というような、分析しょうとしても分析し得ない感覚的なもの(勘とか骨ととらえられるようなもの)を技の中核におき、これらは対人的運動として非常に重要な「攻め」「崩し」といったものと密接に開通している。そしてこれらは型の修練のうちに自然と身につくものとされる。

武道の技は、運動を分析的にとらえたり、論理的思考で抽象化することによっては得られない。型の修練のうちに体全体で「体得」「体認」されるものである。

技を実現してゆく経過の中で、運動が美的規範によって拘束される。技は形が正しく、「色、艶、装」といった美しさが備わらなくてはならないとする日本人の独特の美意識がある。これは活発な力動性を持った機能美ではなく、機能を形式の中に押し込め、さりげない動きの中に無限の力を秘めつつ、素朴でかすかに表出される所に美を感じるという抑制の美的規範がはたらいている。したがって、修行によって技が習熟すれば、無駄な力や動きがなくなり、すっきりした運動になって現れるという運動の簡潔化がある。そしてこの簡潔性の終極は、外見上運動として現れない「無」に至るという志向性を持つ。

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