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秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 2

序文(覚書第1稿)の一部です。
序文としては長く、途中から原稿ないことから未編集の草稿だと思います。

序文
私と合気道の出会いは、大正2(1913)年私の父堀川泰宗が大東流柔術の教授代理を許されてからであります。父泰宗が教授代理になりたてのころから、ぽつぽつと大東流柔術の手ほどきを受けておりましたが、私はまだ若く(当時19歳)武田惣角先生(当時54歳)とお目にかかる機会はありましたが、まだ、恩師として意識したことはございませんでした。
大正2年私が、床丹(とこたん、北海道(網走支庁)常呂郡佐呂間町)の特別教授所に教員として赴任したとき、近所に武田先生がおられる(英名録によると当時惣角は北海道内で巡回指導している。)と聞き、お伺いしたところ武田先生は教授代理泰宗の息子であるとのことで、色々父からも習ったこともない応用技の教伝を受けるようになりました。
大正2~3年は武田先生と私の両親との交情はますます親密の度合いを深め、武田先生の長女(たえ)がお生まれになり、私が名付け親を頼まれますことなど、武田先生とは通常の師弟愛以上の交流が続きました。
大正3年10月私の母が老衰で亡くなったとき、武田先生は誰より先に駆けつけてきて、目から大粒の涙をポロポロ流し「どうして死なさったー」と子どものように大声を上げて泣いて下されたことを今でも忘れられない思い出として残っております。
思い起こしても、私に対する教伝の態度が変わられたのは、母が死んでからで、それは母からの遺言で頼まれでもしたかの如く厳しいものとなりました。教伝を受けた年月が過ぎるごとに伝書の数も増え、次第にうずたかく重なるようになりました。
時勢が移り変わって敗戦となり、混乱した社会世相の中で、教職に置かれた者として、これからの世代を、どう青少年達を立派に育てたら良いものか、小学校長の責任ある立場の者として、私自身が多いに悩みました。時が過ぎ日本が平和な繁栄の方向に進む道がはっきりとしてくるにしたがい、これからの若い人達があまりにも消極的な虚脱感に陥っていることに気づき、自ら自己を律することができるようになれる人間として、自分自身に対して常に確固たる自信を持って世の中を渡ってゆける人間となれるためには、どうしても武田先生から教伝を受けた「斬らず斬られず、蹴らず蹴られず。」(昭和5年8月17日の東京朝日新聞に掲載された「世を避けた今卜傳」の記事中にある惣角の言葉)の合気道を公開して、ここで実行される各種鍛練法がこれからの新時代の青少年達の、気力の充実に、また、新健康法としても優れたものであることに気づき、戦後は一貫して会津藩秘伝技の公開を考え、学校転任の都度それぞれの任地内にて、秘伝技の公開を続けましたところ、若い人達の間での反響は大きく、たちまちのうちに広範囲に広がっていきました。
小学校長時代の教え子達により昭和25(1950)年幸道会が設立されました。各地に支部もでき門人も五万余となっております。このように私の教師生活の関係から北海道一円という限られた地域でありながら、合気武道が地に付くことができたのは、やはり大東流合気柔術が八百有余年という歴史ある伝統の中で育て上げられた技芸であるからであろうと近ごろはつくづく思うようになりました。
これから残り少ない余生を世界にも誇りえる伝統に輝く合気武道の実像をこの本の発行を機会として、一般の方にも認識して頂くことができ得れば、と考えております。
元々写真、文章による武技公開という途方もない誤解を受けやすい方法は本来なれば望みたくありませんが、それらの困難を越えて固い決意に踏み切ったわけであります。(この部分の写真及び原稿なし、某氏がいろいろな遺品とともに持ち去ったことが関係者に知られている。)
歴史の絆の縁とともに武田惣角大先生が「生涯の生きがい」としてきました合気武道の宣揚が、昭和18(1943)年4月26日武田先生が青森で宣教途中に客死されてから数えて本年は29年目にあたり、この本が全国に広がる頃は三十周忌となります。やっと大東流が合気武道の本流として登場することができますことも、おそらくは武田先生の執念が実ったことと思われ、草葉の陰で本望であろうと存じます。
私が何時も不思議に思いますことは、大東流(以下原稿がなく不明)


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