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槍と合気道12

ここに武道でない実像としての「当身のない合気道」が生まれ、その旨公にされたのである。文部省は「合気道は武道ではない」と認め、昭和23年2月9日付けで財団法人合気会を認可した。
ここでは、「武道にあらず・舞踏にあらず・しこうして新興宗教でもない」とする「合気道」の進むべき道は、新生日本国民の保健体育を目的とした普及団体であることを条件としていた。
そしてその事業目的において「合気道は、各種の技芸に共通するもの」と定められたのであった。これが植芝合気道の実体である。

さて、この主旨に忠実に従ったのが、戦後いち早く帰国してきた藤平光一氏であった。ここに藤平式「当身のない合気道」が誕生したのである。
戦後誕生した「この合気道」は、戦後の虚脱した日本人の精神構造に、目新しい何かが求められるものとして映ったものか、又は新時代に即応した巧みな宣伝のためか、昭和25年頃から急速に普及し始めたのである。

特に、その普及活動の原動力の手本とされた人は、後に師範部長となった藤平光一氏であった。敗戦後に誕生した「合気道」の普及活動において、藤平氏が果たした華麗なる実績こそが、植芝合気道総本部が現在の地盤を築き上げた、といっても過言ではない。藤平氏なくしては、植芝合気道の創生期は語れないのである。

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