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会津紀行(雑感)16

さて、西郷頼母は長沼流兵法印可、大坪流馬術、溝口一刀流印可である。
この内長沼流兵法について山川男爵曰く「長沼流は長沼外記澹斎(げきたんさい)の兵学で、その兵要録は本邦名将の遺訓はむろん、唐土古来の兵学に通じた明の実戦の名将の著書を参考にしたる編述で当時にあっては最要の兵学でありました。他の兵学と異なり長沼流では他の捨てて顧みなかった練兵に非常に重きをおいて、改革以来会津では毎日諸隊が練兵に努めたものであった。(田中)玄宰(はるなか=会津藩家老)の考えでは長沼流で練った軍隊で向かえば露西亜人など一破りすることが出来るから、かくして我が藩の手並みを奥羽諸藩に見せて、彼らに我が藩を畏敬せしめるため出兵を内願(会津藩による蝦夷地警固のこと)したということを、私は聞いている。」

また、「会津人は東北の押さえであるということを夢枕にも忘れなかった。しかし、会津藩は武功の家柄の藩ではなかった。正之がにわかに大藩に封じられたため、当時浪人していた武功の武士をたくさん抱えたから、名ある士も会津藩の初期には大分あったが、武功の家ではなかった。故に鎮護に任にあたっていて、『戦わずして他を制する。』威望が欠けていたことが会津人の深く憂へていたことであった。」

ここには大東流武法の基本哲学感たる「戦わずして他を制する。」があり、練兵を主体とする長沼流兵法が説明されている。現在私が進めている集団演武(練気)による合気柔術及び柔術の形演武がそれである。

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