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柳生家三代目

十兵衛三厳の急逝に伴い柳生家当主になった努力の人宗冬、その才能を買われ尾張柳生を兄(利方)から引き継いだ連也斎厳包(としかね)に関する鶴山先生のメモです。なお、尾張柳生では流祖から印可相伝を受け継いだものを「世」、血統の一子相伝を「代」と呼びますが、ここでは尾張柳生家初代から三代目にあたることから、そのように表記されたものです。

尾張柳生の三代目柳生連也斎厳包は、取揚げ使い(初学者のために動作を分割し、一端雷刀に取揚げてから太刀を打ち出す勢法)を創作するとともに、燕飛六箇之太刀を木刀を用いた連続した勢法に改変した。一方、本家である江戸柳生家の三代目柳生宗冬は、将軍指南役を世襲制の地位として確保するために大変な努力をした。初代の父宗矩は1万石の大名に実力でなった人物であり、二代目兄十兵衛三厳(44歳没)は石舟斎の生まれ変わりか、といわれる実力者、早世した友矩(27歳没)も将軍家光のお気に入りで文武両道に優れていた。宗冬はこうした優れた家系の中で、38歳のとき8,300石(旗本の地位)で後継者なった。その後、時間(25年間当主を務め、63歳没)をかけ自分がいつ死んでも子・孫達が技法・心法がマスターできるよう非常な苦労をして江戸柳生技法の完成を成し遂げた。この間、56歳にして1,700石加増され柳生家を1万石の大名格に復活させた。
なお、これらの技法の一部は柳生流柔術として大東流合気柔術に伝わっている。代表技法としては、合気二刀剣と無刀取である。また、宗冬は尾張柳生家の世襲体制の崩れ(連也斎には子どもがいない)を心配して、連也斎(宗冬より12歳年下)に尾張藩指南役のポストがなくならないようアドレスした。その結果、勢法の創作や原典研究がなされ、宗冬の目付としてのバックアップにより清国武官との交換教授などが行われ燕飛の改変にも影響した、と伝わっている。連也斎は父利厳の口伝を伝述した「新陰流兵法口伝書内伝」をとりまとめ厳封して、これを開封したものは目が潰れるとした遺書を残した(70歳没)ことで知られている。
江戸柳生の技法も四代将軍家綱の時代からは将軍護身術として秘密化されていった。この体制作りは宗冬、松平信綱(智恵伊豆)と阿部忠秋が将軍政治の基礎固めを行う中で完成されたようだ。

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