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大東流-武芸流派大事典6

昭和53(1978)年12月10日発行の武芸流派大事典より
「惣角流(合気)
会津の人、武田惣角源正義が祖。万延元年10月10日、会津坂下御池田(一説-福島県広瀬村)にて、武田惣吉の二男として生まれた。元治元年、蛤御門の戦、慶応4年の鳥羽伏見戦争には大砲隊力手隊長として参加している。父から家伝の大東流合気柔術を学び、明治3年、小野派一刀流渋谷東馬の門に入って、明治9年免許皆伝。明治6年直心影流榊原鍵吉の内弟子となる。明治8年元会津藩家老西郷頼母(後名、保科近悳)について、合気柔術を習い、明治31年5月12日免許皆伝。他に小野派一刀・二刀流にも達した。昭和18年4月25日青森市で死す、86歳。網走市台所町の法竜寺に葬る。伝系は大東流合気柔術を見よ。

昭和53(1978)年12月10日発行の武芸流派大事典より
「惣角流(合気、柔)
会津の人、武田惣角源正義が祖。万延元年10月10日、会津坂下御池田にて、武田惣吉の二男として生まれた。明治3年、小野派一刀流渋谷東馬に入門。明治9年免許。明治6年直心影流榊原鍵吉の内弟子になる。明治8年、旧会津藩家老西郷頼母(後名、保科近悳)に合気柔術を明治31年5月12日免許。以来保科の指命で大東流として一派を起こした。槍・二刀流・棒・手裏剣にも達す。昭和18年4月25日、青森市で巡回指導中に客死した。84歳。網走市台所町法竜寺に葬る。惣角の門人中、大東流免許皆伝をゆるされたのは久琢磨ひとりであった。久の流名は日本伝合気柔術という。その条及び大東流合気系譜参照。

なお、植芝流については、旧版は大正4年吉田幸太郎の紹介で惣角に入門した時点までの記載となっており、系譜には久琢磨一門が載っています。新版では大正11年以降の事跡が記載されており、系譜からは久琢磨一門の名前は削除されています。(完)

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