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骨法の堀辺が来た(続)6

(承前)
明治6年に『文明開化文章(上下)』という和綴じ本が出版され当時のベストセラーになった。このころからサムライ文化を主体とした江戸風俗は衰退の一歩を踏み出していた。
一方、明治15(1882)年5月嘉納治五郎は東京下谷の北稲荷町にあった永昌寺に12畳敷の道場を開き講道館を立ち上げた。諸流派武芸が衰退していく中、嘉納が創始した講道館柔道は、新時代(富国強兵)に対応する新時代の柔道と宣伝されていた。この柔道が警察制度改革に伴い警察官鍛錬用として採用され、全国の警察署に広まり、一般の人たちに講道館柔道が認識されるようになった
そして、明治時代中ごろには、文明開化も定着し、江戸時代の生活習慣は忘れ去られ、サムライ文化は否定された時期であった。当然、サムライ武法を教える道場もなくなっていた。終戦後の日本が、戦前の習慣等を全否定したのと同じようなものである。こうした中、古流柔術の師範たちは生活のため接骨治療院を開き、その合間に柔術を教えるという状況に陥っていた。
このような時代背景のもと、講道館柔道の勃興を見て、その原典といわれる「天神真楊流柔術」の宗家(五世磯又右衛門)を担ぎ出す人吉田千春(神田錦町・柳真館道場主)が現れても不思議ではない。丁度、合気道の普及とともにその原典である大東流に世間の関心が集まるのと同じ現象である。(続)

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