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合気柔術の技法20

昨日(昭和59(1984)年)3月15日(木)横浜ACCに大坪先生が来た。Kブックスの『大本教』の最近版の中に浅野中将のことがあり、また、サンケイ出版『合気道』(昭和58年12月)には、「軍港舞鶴が近いこと、それに最高幹部の一人浅野和三郎氏の実兄が浅野正恭(まさやす)海軍少将(後に中将)だったことから、(中略)多くの海軍軍人が参加した。」竹下勇海軍大将は、盛平のことを浅野海軍中将から聞いたこと、など書かれている。これらのことについて、大坪先生に確認を求めた。
古いことだし、伝聞でもあるので先生の記憶違いもあるかも知れないが、以下、そのまま記録(年代順不同)しておく。 

大正8~9年大本教は大々的な宣教活動をしており、浅野和三郎を中心とする主張が内務省・警察当局から危険思想としてマークされており、兄である浅野海軍中将は自身が海軍関係の(大本教)の窓口であったことから、(責任をとらされ)大正9年末には待命予備役となった。翌10年に第一次大本教弾圧事件が起きる。 

浅野中将は、その後の一時期、舞鶴軍港関係の仕事をしていたようだ。
 大正14年には、東京の田園調布に家を建てている。 

大正10年当時、盛平は惣角が許した資格がなかったので、浅野中将の保証で東京進出の準備をしていた。

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