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戊辰の年の年賀状8-江戸柳生と鶴山先生-

さて、江戸から明治・大正と困難な時期に道統を守ったのは、11代厳周(としちか)でした。
厳周は慶応3(1867)年明倫堂(明治4年廃止)内に開設された道場の兵法師範に就任、当時19歳でした。明治初年以降、道統は日々廃頽し、明治5年の廃刀令により衰退、明治8年には軍刀の制式をサーベルと定めたことで、これに追い打ちをかけられたのでした。

このような状況の中、明治天皇は古有武術の退廃を嘆きこれを保存するため明治15年済寧館(せいねいかん)を創設しました。厳周は出仕し指導しますが、諸事情から上手く行かなかったようです。
また、尾張柳生家一族の柳生一義は邸内(牛込区若松町)に柳生流兵法碧榕館(へきようかん)を創設し厳周は指導に尽力したのでした。この碧榕館の教師筆頭が下條小三郎だったのです。下條は心形刀流の免許で、厳周に試合を挑みこれに敗れ、入門しました。その後、厳周から目録を伝授され高弟となっていたのです。

大坪指方は、厳周に入門し、その息子厳長にも師事していましたが、厳長が名古屋に帰った後、下條が設立した檪山館で修行を続け下條から目録を授与されています。

こういった経緯から、鶴山先生は江戸柳生の刀法を学ぶことは出来なかったのです。先生の研究は独自ものであって、技法のみに関して言えば、独創というべきものでした。

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