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名前考

鶴山先生によると、武田惣角源正義の源正義が諱(いみな)で、山本角義も本名は山本留吉ですが諱の角義を名乗っていた、とのことです。

昔の武士は生涯に何度か名前を変える風習がありました。「通称」は幼名で始まり元服する時にその通称を別に選んで(多くは、父又は祖父の通称をもらう)、この時初めて諱を付けて一人前の扱いになるのでした。
それ以降、何かの都合で通称を変え、中には二度も三度も変える人がいたようです。また、隠居すると、名前を変えました。(代々隠居名の決まっている家もありました。気の早い人は隠居と同時に法号(法明)や戒名を坊さんに付けてもらって名乗る人もあったそうです。)商家などで主人となる者が代々襲名する風習も、実は武家に倣ったものだったのです。

諱とは忌名(いみな)のことで、中国の周の時代に始まり元来は貴人の本名のことでした。
さて、ここで混乱を避けるために、字義を確認しておきましょう。日本国語大辞典によると、
    諱(忌名)①本名、死者の生前の名で、その死後人々がいう
            ②死後に尊んでつけた称号、おくり名
         ③①を誤って実名の敬称、貴人の一字を賜るときなどにいうこ                            とが多かった               とあります。

他の人は貴人と同じ文字を本名に使うのを避けたのですが、日本では文字そのものでなくて、その読み方が同じになるのを避けていました。この慣習は、昔は天皇、摂政、将軍などに限られていましたが、江戸時代になるともっと一般化し、いつのまにか文字の読みよりも、もとのように文字そのものを避けるようになりました。
ついに、江戸幕府5代将軍徳川綱吉は「鶴字法度」(自分の娘(鶴姫)の「鶴」字を使ったら罰する。)を出しました。この法度のため井原西鶴は西鵬(さいほう)と、改号を余儀なくされました。西鶴は米屋の出身の作家でしたがそのペンネームが引っかかったのでした。なお、この法度は、宝永6(1709)年に綱吉が亡くなった後、廃止されました。
このいろいろな名前を使う習慣も、明治5(1872)年の太政官布告「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」(複名禁止令)により、諱と通称、号などを併称することが公式に禁止されたのでした。

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