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合気柔術のはじまり3

昭和17年、大東亜戦争がたけなわになるや、大日本武徳会に諸流派武道を統合させる運動が起こり、ここに初めて「合気道」なるポピュラーな固有名詞が誕生する。ここでは、免許皆伝という形式から離れ、剣道を見習った合気道範士なる資格が設けられた。その初代範士は現在東京タワー下に道場を開いておられる大日本光輪洞道主平井稔先生であった。
大日本武徳会が認定した「合気道」の定義について、当時を回顧して平井先生は編者(鶴山先生)に次のように語った。
 
「柔道・剣道が学校教育として実施されるようになってからの一般認識では、武道というと、防具をつけた竹刀剣道、講道館スタイルの柔道に二種類にされ、このままで行くと古流伝統各派の武術は、将来まったく忘れられてしまう。そこで、数百種類も残されている日本伝統武術の正しい保存のため、適当に共通している意味を持つ、柔道・剣道といった総合名称に統一できるその他の古流武術の総称を考える必要が起きた。それが“合気道”であった。この場合の合気道とは、古流各派の伝統武術で、剣術・柔術・棒術・鎖鎌・槍術・手裏剣術・薙刀等のものを総称したものである。古武術に共通する用語としては“気合・合気”があるが、“気合”は見世物の気合術があり、柔道・剣道でも用いることからこれを避け、“合気”を使用することとなったのである。」と
 
合気道の名称が世間に使用されるようになった真相はここにあった。すなわち、現在一部で認識されている「合気道」ではなく、「柔(やわら)」の定義と同意義であった、ということをこの機会に認識を新たにしなければならないのである。この大日本武徳会の合気道は昭和17年以降、敗戦の年まで続けられ、指導者として、教士・錬士を含め50人程誕生している。

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