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会津紀行(雑感)20

この回をもって、会津紀行は終了します。
鶴山先生のメモには会津紀行(続)というのもあって、いろいろ書いてありますが、収拾が付かなくなりそうなので、一端終わりにしたいと思います。

また、時宗氏は武田惣吉(惣角の父)は力士隊で鳥羽伏見の戦いに参戦したというが、これもおかしい。力士隊は会津藩の軍制改革に伴い慶応4(1868)年2月に藩内の力士を徴募して編成されたもので、鳥羽伏見の戦いは慶応4(1868)年1~3月に行われたことから参戦はありえない。
山川健次郎の妹であった山川捨松(大山巌の妻)は「当時私は8歳でした。会津戦争も終わりに近づく頃には、武士の家族はほとんど城に籠城いたしました。家族というのは女・子どものことで、男達は皆戦いに出ていました。女・子どもは城の中で出来るだけ男達の手伝いをするため、仕事の種類ごとに隊を編成しました。」と証言している。
さて、藩校日新館には10~12歳で素読所に入学し、学力のついた者が考査で上の級に進めた。会津藩では文化2(1805)年に「幼年者心得」の廉書(かどがき)を家臣に配布し、日新館へ入学(10歳)前の子どものしつけを厳しく指導するよう通達した。各家庭では午前中は先生のところにやって漢文の読みや習字を習わせた。午後の遊びは什(じゅう=藩士の子弟のグループ)単位で、遊ぶ前に什長が「お話し(八か条の誓い)」を一条ずつ読み聞かせた。
 1 年長者の言うことにそむいてはなりませぬ
 2 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
 3 うそを言ってはなりませぬ
 4 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 5 弱い者をいじめてはなりませぬ
 6 戸外で物を食ってはなりませぬ
 7 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 8 ならぬことは、ならぬものです
これには反省会もあり、八か条に背いたことが明らかなときは制裁を受けた。軽いのは「無念でありました。」と詫び、最も重いものは「派切り」で仲間はずれ絶交であった。
このように武士の子どもは厳しく躾けられていたのだ。
これらのことからしても惣角は武士ではなかったことが判る。(完)

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