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武田惣角の柔術講習

武田惣角は、英名録(門人帳)によれば、明治32年から大正9年ごろまで東北・北海道方面の警察や裁判所、監獄などで大東流柔術の短期講習会を中心に巡回指導していました。

武田惣角は無字(読めない・書けない)の素浪人なのに、なぜ、警察署や裁判所、監獄などで指導できたのか不思議ですよね。
想像してみてください、現代の大企業や役所の研修講師に名もなき人を招請出来ますか?
ここには、西郷頼母の強力なコネがあったのです。現存しませんが、推薦状や紹介状もあったことでしょう。当時の東北、北海道は治安が非常に悪いことから警察など武術を必要としていた実態もありました。

さて、柔術の講習は非常に厳しいものです、ようするに痛いのです。1回の講習の謝礼は10日間で10円でしたから当時としては非常に高額でした。講習の謝礼は官費で賄われたので、高額でも対応できたのです、ただし、受講生は仕事で講習を受けるわけですから、痛くても逃げられません。大変だったと思います。

ところで、東北や北海道方面の警察や裁判所などへの指導は、西郷頼母の要請で行われました。
戊辰戦争における旧東北連合軍の関連する士族の多くが東北や北海道方面の警察や裁判所などに採用されていました。また、会津藩を含む旧幕府側についた士族は賊軍として冷遇された時代でした。
こうした背景のもと、惣角の生計を助ける趣旨の他、旧会津藩士を含む東北諸藩の士族達の生命を秘伝大東流柔術で守ろうとした、というのが普及活動の真の目的だったのではないかとされています。

大正時代に入ると、警察や裁判所などへの指導が漸減します。一巡したこと、と警察内部に柔道を含む護身術を指導できる人材が育ち、惣角の指導を受ける必要性もなくなったからです。
その後、惣角の指導対象は、北海道在住の金持ちなどに切り替わっていきました、生活のため、武術を切り売りする時代でした。

武田惣角は最初「大東流柔術本部長」の看板で指導していていましたが、このことを証するかのように、大正11年9月以降は「大東流合気柔術総務長」の肩書となりました。

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