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柳生宗矩一万石(上)

一介の兵法者が一万石の大名に取り立てられる、巡り合わせや運もあったでしょうが新陰流兵法の真髄を極めたからこその栄誉だと思います。
禅を借りて術を悟り、術を借りて政事を諭す、柳生宗矩は平和な徳川時代を築いた功労者の一人であったのです。
今回は、その宗矩についての鶴山先生のメモです。

尾張柳生関係者は「宗矩は幸運であった。」という。
その理由は、五男坊であった宗矩はたまたま側にいたので石舟斎に連れられて家康の処に行った幸運児であり、初代兵庫助利厳の五百石に比較して一万石とは…というのである。
柳生庄の本領は秀吉の時代に没収されていたが、関ヶ原の戦いの際の宗矩(30歳)を中心とした後方支援の功績により旧領二千石を回復した。その後の宗矩の石高をみると、翌年秀忠の兵法指南役となり一千石加増、1632年(62歳)家光の時代に総目付(後の大目付)に補せられ三千石加増、さらに4年後四千石加増され一万石の大名となり、1639~40年には二千五百石加増され、最終的に12,500石となった。そうすると、兵庫助(38歳)が尾張徳川家に仕官した当時(秀忠の時代)の宗矩の石高は三千石だったのだ。これをどう見るかであるが、冒頭の比較はちょっとおかしい。
石舟斎が家康を相手に無刀取(奪刀法)を演じ、家康がその場で神文誓紙を差しだし入門したことは有名だ。私は、これは石舟斎研究の新陰流兵法の独占契約だとみている。剣術の技法だけではなく付随する心法その他為政者に利するノウハウ等である。大坪指方先生をして、江戸の心法、尾張の刀法といわしめた、端緒であろう。

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