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大坪指方先生のこと17

ところで、戦後大坪先生は神楽坂の自宅を担保にした印刷会社の代表取締役であった。代表といっても給料をもらうだけの社長で、本業は歴史史料の調査であった。その行跡は柳生にも尾張にもある。当時厳長さんは講談社から「正伝新陰流」出版すべく売り込んでいた。この本の主張は「尾州柳生家をもって正統の宗家・嫡流とする」というものであった。厳長さんは生活に大変困っていたらしく(借家住まい)、大坪先生に古典の伝書を送ってきて、販売の委託をしたそうだ。厳周伝、下條師のことその他公にしにくい裏事情を知る大坪先生の口止めのために、昭和26(1951)年厳長さんは第8代柳生厳春直筆の印可相伝書の下書きに添状を付したものを授与したのだ。大坪先生は当時はこの行為の意味が何のためだったのか判らなかったようだ。

鶴山先生は、下條小三郎先生が江戸柳生の技法を引き継ぎ、その技法を大坪先生が継承したと信じて(信じたいと思って)いたようです。下條先生は尾張柳生目録位で奪刀法以降の伝授はされてなく、大坪先生も同じでした。しかも、鶴山先生に本格指導をした時期はすでにご高齢で、技も忘れたり手順前後したり、病気で倒れられたり、ということで、十分な指導はできなかったのでした。大坪先生から下條先生は皆伝印可でないと聞かされショックを受けた、とありますが、下條先生が誰から江戸柳生を習ったのか、についての言及はありません。
さて、鶴山先生は、武田時宗氏が大東流の宗家であると信じていたところ、久琢磨から皆伝の口伝を受け、今までの調査研究が砂上の楼閣ごとく崩れ去り、気を取り直すのに数年かかっています。久琢磨の口伝から江戸柳生系合気柔術のことを知り、その技法を知りたいと思った鶴山先生の気持ちは先生の事跡からすれば当然のことだったでしょう。
この時の大坪先生の話から、今回も、おそらく自らの間違いに気づいたのではないかと推測されます。大坪先生は江戸柳生の文献研究家ではありましたが、その技法を知っているわけでありませんでした。江戸柳生家の技法は既述のとおり紫ちりめん騒動でほぼ失伝したとされています。勤王派柳生藩士の中に継承者はいたかも知れませんが、体系的に継承され現在に至るとは、聞いていません。鶴山先生は昭和63(1989)年12月21日に急逝されたので、この2回目の失態について、軌道修正のチャンスはなくなったのでした。(完)

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