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戊辰の年の年賀状3-江戸柳生と鶴山先生-

尾張柳生家の厳長氏は『正伝新陰流』を著し、その中で新陰流の本家本流は尾張柳生家であるとの主張をしている。この本は、画期的なものではあったが、史実だけでなく創作の部分もあり残念なことである。しかし、世間への影響は大きく、今や基本書的扱いをされているようだ。

大和柳生藩(江戸柳生家)は将軍指南役を任命されており、宗冬以降は大名(1万石)の地位を守った。尾張柳生家は、同じ御指南役ではあるが500石であった。この差は、廃藩置県後のいわゆる失業時に大きく顕在化した。江戸柳生家は子爵に任ぜられ、十分な遺産と地位を維持したのに対し、尾張柳生家はほぼ失業状態であった。明治以降、徳川時代の武術を習おうという人はほとんどいなかったが、その逆境の中、道統を維持することは大変なことであった。

同書の中で厳長氏は、江戸柳生家の技法は失伝している所がある、と主張している。天狗抄のことだろうが本当にそうなのか・・・疑問が残るところだ。
江戸柳生の刀法は下條小三郎系統のものである。海軍兵学校の同期生竹下勇が連れてきて、柳生厳周の門人となった。大坪先生の師である。(鶴山先生のメモの引用終り)

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