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骨法の堀辺が来た(続)14

(承前)私(鶴山先生)が骨法批判の連載を始めると、いろいろな方から反響があり、数人の方からお手紙もいただきました。私の反論も大東流に関する部分だけにして、堀辺氏の主文となっている骨法誕生の歴史などについて、どうこう言うことはあまりにも馬鹿馬鹿しい(学術的価値もない)ことなので、私自身は触れるつもりはありませんでした。ところが、この部分に関してACC会員のT君や長野君が詳細なレポートを提出してくれたので、会員諸氏の参考にその一部を紹介しておきます。

T君によると、『換骨拳入門』では、「換骨拳堀辺一夢宗家との勝負に敗れた吉丸氏は、総てを捨てて一夢宗家の門に入った」との記述であるが、その実態は「吉丸氏が堀辺氏の先生であった」というのである。

では、T君のレポートの一部を・・・
換骨拳及び骨法について ACC東京夜の部T
鶴山先生の「骨法52代司家堀辺師範の誤解釈を正す」のレポートを見て、私も思い出したことがあります。『大東流合気術の源流 換骨拳入門』の小誌は私も持っておりました。早速、『空手と武術』なる雑誌の4月号(1985年)を買いました。その雑誌に出ている骨法司家52代堀辺正史の顔写真と私の持っていた『換骨拳入門』の換骨拳第40世宗家堀辺一夢とは、髪型こそ違うが同じ人物だとすぐにわかりました。しかも顔だけでなく教えている道場も同じ場所だったのです。
ところで、この道場は、通勤途上国電の窓から東中野駅前を見ていて気になっていたところでした。覚えている最初の看板は「拳医会診療所」で、昭和50年ころは「大東流伝合気道」、昭和53年には「換骨拳」、そして「鷹爪派武術館」と変わり、現在は「骨法武術館」となっています。わずか数年で流派名称がくるくる変わる、どういうことになっているのだろうか?と素朴な疑問をいだいていたところでした。(続)

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