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沢庵和尚11

三代将軍家光が品川の沢庵和尚に向かって
「海に近き東(遠)海寺はいかに」と問いかけると、和尚は
「大軍を率いても将(少)軍というが如し」と応えたとする洒落言葉(小話)がある。東海寺とは、家光が沢庵のために品川に建立した寺院である。
 
さて、寛永11(1634)年堺に帰った沢庵(62歳)だが、この年、上洛した三代将軍家光(31歳)に会う、これは宗矩らからの恩赦に対する礼を述べた方がよいという強い勧めにしたがったからであった。そこで、家光は沢庵に惚れ込んでしまったらしい。ところで、金地院崇伝は前年に亡くなっており、天海僧正も99歳と高齢だったことから、家光は新たな顧問を欲していたという事情もあった。沢庵は、家光からの「江戸へ召せ」との再三の命を断っていたが、「病気でも参府せよ」とまでいわれ、ついに寛永12年12月江戸に下ったのであった。
 
江戸城の南、品川のほとりに大巨刹(きょさつ=大きな寺:敷地面積157,000㎡)萬松山東海寺が建立されたのは寛永15(1638)年島原の乱が平定された年である。これ受け、諸大名は沢庵を開基とする塔頭(たっちゅう)諸寺を建立した。酒井忠勝(老中)は長松院を、堀田正盛(老中)は臨川院を、細川光尚(熊本藩主)は妙解院を、小出𠮷英(岸和田藩主)は雲龍院を、宗矩は法徳寺を、という具合だ。沢庵渇仰の勢いは凄まじいばかりであった。東海寺には塔頭が最大17院あったというが、廃仏毀釈と寺領が明治政府によって接収されたため、当時の面影はない。

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