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合気柔術の技法21

浅野中将は、海軍と大本教の関係の解明及び大東流と植芝合気の関係解明に必要な人物である。息子(養子の遥(はるか))が伝記(父を偲ぶ)を書き、その本は大坪先生が持っているとのこと。 

竹下勇海軍大将は浅野中将と同期(海軍兵学校)であるが、大東流に心酔し、武徳会の後援で昭和10年に設立された日本古武道振興会の第1回演武会において、大東流合気柔術の演武を行っている。 

大坪先生は下條道場で浅野中将と竹下大将から大東流合気柔術を少し習ったことがある、その際の交換指導で新陰流兵法を下條先生と大坪先生が指導した。この下條道場には惣角も来たことがあって、大坪先生も惣角に手首を握られ背中まで痛みが走った覚えがある。 

盛平の女性関係で、大阪の某宗一から聞いていた「植芝も『おすみ』さん事件でミスをしたからね。」の意味が、大坪先生の話でわかった。盛平と出口すみ(大本教2代目教祖)の間に子どもがいたというのである。この人は浅野中将の養子(浅野中将も下條小三郎も子どもがいなかった)となり育てられた。これは誰にも言うなと口止めされていた話だそうだ。

 秋山真之(さねゆき)は、日露戦争でバルチック艦隊がどう動くか心眼で予測して東郷元帥に手柄を立てさせた参謀本部付けの中佐であるが、その後大本教に入信(大正5年ごろ)している。サンケイ出版『合気道』では「(合気道の)信奉者には、舞鶴軍港の海軍関係者が多く、秋山真之中将は非常に熱心な門弟であった。(199頁)」とあるが、盛平が綾部に植芝塾道場を開設したのは大正9年であって、すでに秋山中将は亡くなっており、この話はおかしい。 

大坪先生とは、当然の出会いから付き合ってきたが、浅野中将の研究家でもあった先生と新陰流兵法の関係がはっきりするにつれ、その出会いの不思議さ、因縁の深さが「大東流」の真相解明にとって、私の存在価値が、これほど大きいと自覚されたことはなかった。

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