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術から道へ(上)

講道館柔道は旧来の柔術から完全に独立した基礎理論に立脚し、これを「精力善用・自他共栄」との標語で表わすとともに、「術から道へ」と名を改めたとされています。

ところで、嘉納治五郎が改称した「柔道」という名称自体はすでに江戸時代からあったもので、嘉納氏のオリジナルではないのです。柔道という用語は嘉納氏が学んだ起倒流ですでに使われていました。
起倒流柔道は、鈴木清兵衛邦教が鈴木家に代々伝わる日本神武の伝「神武の道」(じんぶのみち)を起倒流に取り入れ、寛保元(1741)年にこの名称に変えたとされています。
その伝承者水野若狭守忠通の著述「柔道雨中問答」に「柔道は誠であり天道である。それを習得するためには術を尽くして術を捨て、理を尽くして理を捨てなければ、天地人性、神人一体、天地一枚、神明の位に達しない。」勝負の法という次元を超えて天意と一体となることを目指していた、とあるそうです。起倒流柔道の中に見られる「術」を超えた「道」とは、日本古来の神道に基づいた「道」であったのです。

さて、「道」について、望月稔先生の論考から紹介しましょう。

「『道』なるものは、東洋農耕民族の歴史的生活環境より生まれたる倫理観念である。すなわち、農耕民族はその生活基礎たる穀物、果物の収穫がすべて天地の自然現象に根本的、絶対的に左右されるために、この自然現象に対して敬虔、畏怖、憧憬等の感情以外に強き研究観察の精神が生じその結果、大宇宙には厳として侵すべからざる無限の調和と整然たる秩序があり、しかも万有の流転の中には生成化育の発展原則があることなどを発見しその秩序を天と名付けその原則を天意と呼んだ。
しこうして人の生活とその社会とをこの天意に随わしめんとして『道』なる倫理が生まれたのである。古来中国においては、これを『王道』といい、その概念を社会生活に表わす方法として、礼楽や修身斉家治国平天下の思想があった。
さて『道』には大小の二つがあり、一つは天意そのものを指した目的論であり、二つはこの目的に対する方法論である。これを具体的に柔道のことについて述べると、自他共栄が真の目的論で精力善用が方法論である。要するに、精力の最善活用法たる柔道の技術と理論をよく身につけ、しこうして世界人類の親善、自他の共栄を計れという意である。(略)
これに対し狩猟民族は、常に動物社会に直面する。その社会は弱肉強食、適者生存、常に血みどろの闘争社会である。人もまたその世界に突入して、その体力と智力の最善を尽くし、流血のうちに勝ち抜いていかねばならなかった。そこに優勝劣敗思想や征服観念が力強く育まれていく。
更に農耕の手段は老幼男女を問わず、体力に応じ、能力に従って職場を得、共同の作業によってよくその目的が達せられ、人の多きに従って収穫の多きをみることができた。(略)
東洋の自然順応に対する西洋の征服、我が自他共栄に対して、彼の優勝劣敗。協力に対する非協力。多数共同主義に対する少数精鋭主義。開放楽天主義に対する秘密酷薄主義等とこれ数うれば枚挙にいとまなしであるが、要するに東洋の倫理を徹底せしむれば『道』に連なりこれに反すれば所謂『道』ではないのである。(略)
さて、会って在蒙8か年、常に主道を唱えて覇道を排し、今また欧州に使して2か年半、柔道と合気を伝道しつつ『道』に対する質疑に答え、ヨーロッパ思想に所謂『道』なるものなく、そこにはただ覇道あるのみと断じきったが、帰来熟々と思いをめぐらすに、王道は『道』にして覇道は『道』に非ず天意に沿わざるものと排し去ることの稍々(やや・やや)当らざるに似たる自覚したのである。すなわち方法流転、相対依存の真理より観ずれば、王道と覇道の相表裏して存するが『大道』の実相であり吾人はこれを在るがままに認めて、これを抱容し、浄化し、調和し、開顕しなくてはならないのである。」

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