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秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 3

さて、秘伝・合気道の全体構成は次のとおりです。
第1章
1合気道の歴史
2合気道の概念
3合気とは何か
4天地人の三法則
第2章
1伝統芸能と惣角史観
2安宅の関(原稿上では1と2はつながっていて、項番のとおりに分けられていない)
3弁慶の六法
第3章(技法編)原稿等なし
このうち、読み物としておもしろい、第2章から紹介したいと思います。

第2章
1伝統芸能と惣角史観
大正末期から昭和初期にかけては、文壇界でも自然主義を謳歌していたころであり、西欧化した風俗がモダニズムとして生活の中に定着し始めておりました。そんな中で私の師武田惣角先生は、まだサムライであるという意識に基づく武人としての人生観から抜けきれないようでありました。東京、大阪あたりでは、今時めずらしい因襲因果な頑固者として、また一般人の常識ではおそらく変わり者の老人に見られていたのかも知れません。とにかく現代の表現を借りますなら、ちょんまげを結ったサムライがタイムマシンで来たような老人であったろうと思います。
武田大先生の稽古は、昔そのままで厳しく現代の若い人達には想像もつかないような厳格さでした。それでも稽古が終わっての雑談は、北海道の僻地で娯楽に飢えておりました私にとっては、青春の夢を楽しませてくれた話ばかりでありました。武者修行当時の苦労話、試合の話或いは道場破り、と次から次へと生々しい体験談が豊富にありました。中には父から聞いた話もありましたので、大先生の武勇伝の合間に実技習得上の疑問点を確認したこともありました。
気難しい先生であったと、他の先生方(惣角弟子)の感想を耳にするにつけ、私には無骨な性格の中で、最善なる好意で愛弟子として訓導されたのではないかと思い出されます。
特に「合気」についての解釈上の説明を求めましたとき、武田大先生は若輩だった私にもよく分るように、と思われたのか、東京で見てきた歌舞伎における弁慶の飛び六方の所作を例にとり、身振り手振りで、一言一句をゆっくりと形で示しながら話されたことが、今でもありありと心の底にこびりついております。
私もこの例にならい、演武大会での説明では、そのときの話を思い出して、大東流の歴史とその技法特徴を安宅の関(あたかのせき)の弁慶をモデルにやっておりますが、この方法が一般の人には理解しやすいのではないかと、私なりに判断いたしております。
武道の専門家の諸先生方には、私が演武大会での仮説的な例題として「歌舞伎と合気道の組合わせ」を取り上げますと、武術技法論の中にそれが飛び出してくることは、今までの合気道の解説書にも全くなかったことでもあり、奇異に思われるようです。
誤解を除くためにひと言申し上げておきますと、歌舞伎の仕手、所作が合気の技法であるというのではありません。(歌舞伎における「六方」とは、特別に大きく手を振り、足を力強く踏みしめながら歩く演技をいいます。このうち「飛び六方」とは、片手を大きく振って、勢いよく足を踏み鳴らしながら花道を引っ込む六方のことです。)
武田大先生の歌舞伎観によりますと、歌舞伎十八番で演ぜられる弁慶はすべてウソが多いというのであります。大先生は一般観客としてではなく武士としての立場から主観的に弁慶自身になって。その所作なり仕手なりを見ているのであります。現代人では考えられない感受性を持って舞台上で演じられている「勧進帳」の所作全体を冷酷に批判しているのであります。例えば、安宅の関の関守の富樫左衛門の床几(折りたたみ椅子)の腰掛け方が誤っているとか、弁慶は当時千人から刀を奪取するような強者であるが、あの飛び六方の足の進み方・手の振り方は武人の所作ではないなどと言うのであります。
つまり、サムライ、町人、左官職、畳屋等歩き方一つにしても、その時代時代の職業的な特徴があるというのであります。歌舞伎の舞台に出てくる馬の足に至るも、サムライの乗る馬は武法訓練がされているから塩原多助(歌舞伎の演目「塩原多助一代記」の主人公)が連れている農民の馬の足とは、その歩き方が異なるという。徹底した武人としての生活様式から物事を見つめている訳であります。武田大先生は歌舞伎の所作が武術と似ていると言っているのではありません。今の歌舞伎に登場する弁慶は本物と似ても似つかぬニセモノであると決めつけているのであります。
一般人の感覚では、芝居は芝居でその所作が現実であるか、当時の風習を残したものか等の時代感覚は抜きにして俳優そのものの演技の美を楽しんでおるはずであります。ある意味では武田先生の見方は俳優にとっては鋭い写実的な感覚の見方であるかも知れません。(続く)

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