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武田惣吉のこと4

民政局は青木村他14村に家臣を割り当て居住させていた。男は米5合5勺と200文(≑2,400円)、女は米3合5勺と200文、支給された。
これに関しては…
「手負いの者、御家来、歩兵、町兵いずれによらず、八方より寄せ青木村・御山村・院内村・中野村・幕内・深川・西川・石村・不雨屋・高内上・雨屋・南原・香塩・大豆田・大石村にて家ごとに残らず割り当て相成り、家内共に御扶持の儀は、男は米5合5勺と200文、女は米3合5勺と200文ずつ日ごとに被下候、村ごとに役場相立て役人も医者も会津の人に御座候、塩川村の御預けの御家来は5月10日より15日まで越後の高田へ御つかわしなされ候事、人数皆々この方にてゴザ一枚・ざんざら笠一つずつ相渡り、前後は官軍にて警護なされ、猪苗代御人数をもって江戸へ御使わしなされ、支渡警護は越後行きと同じ信州松下城の御預かりと申し候」とある。

戊辰年9月18日に「会津開城降伏に相成り、容保公御親子滝沢妙国寺に入り、御供五、六人にて官軍多勢にて、前後警護いたし、これにて村方戦争相止申し候」との文書に報告されているとおり、官軍は村々に板札を立て、開城降参の旨を宣し、分捕り相止めを申し渡し民政局をもって庶政を行った。会津藩の城下町は3万の戸数があり、その内2万戸には武士が住んでいた。すなわち会津藩士なら城下町に住み、その家族は戦争後、各地の農民に預けられたとの記録から見ても、武田惣吉が部下を預かったとはいえない。

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