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袋竹刀と武田惣角・植芝盛平のこと

望月稔先生が鶴山先生に語った話。
「昭和6(1931)年、私が牛込区(現新宿区)若松町の皇武館道場にいた頃、武田惣角が尋ねてきて『盛平はいるか。』といい、道場の片隅に袋竹刀(ふくろしない)がころがっているのを見て、『柳生流をやっているな。』と言ったのを聞いて、一般的には知られていないはずの袋竹刀を見ただけで柳生流剣術と看破したのは、さすがだと思った。」

現在(昭和57年ごろ)でも、袋竹刀を見たことがない武道家が多いのであるが、昭和6年当時望月先生が驚いたのも無理がない。では、惣角はどこで袋竹刀を見たのかというと、下條道場(檪山館(れきざんかん)のこと)しかありえない。なお、下條小三郎(心形刀流免許)は柳生厳周(としちか=新陰流19世)との他流試合に敗れ、厳周の門人となりその後目録位(高弟)となったが、柳生厳長(としなが=新陰流20世)とケンカ別れし独立した先生で、海軍兵学校の同期生でもあった浅野正恭海軍中将(教授代理)や竹下勇海軍大将に新陰流を指導しています。

惣角は上京するたびに、檪山館に必ず寄ったそうで、このとき、下條の弟子の大坪指方(当時25歳、後に東京教育大武道学科講師など歴任、鶴山先生の新陰流の先生)が惣角に会っています。大坪先生は「腕を掴まれたと思ったら、すごい激痛が背中まで走った。」「変わったお爺さんという印象だった。」と惣角の印象を語ったそうです。また、植芝盛平が下條道場に来たとき「これが柳生流の袋竹刀ですか?初めて見ました。」と語ったことをはっきり覚えていると、鶴山先生に話されたそうです。その後、下條、大坪両先生は三学円の太刀を盛平に教えたそうです。

惣角はこのとき初めて西郷頼母から口伝で聞いていた新陰流の実技を見たのでした。盛平も同様です。二人とも達人ですから下條道場での見聞を即座に理解し、積年の疑問が解消したことでしょう。


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