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日本経済新聞「春秋」に取り上げられた合気道3

そして、昭和7年、盛平氏の名声を聞きつけた東京朝日新聞社の石井光次郎業務局長が大阪朝日新聞社庶務部長に転勤した久琢磨氏あてに「庶務部長になったからには、警備課員を育成するのも君の務めの一つである。ついては東京できわめて優れた武術家・植芝盛平氏と懇意になった。植芝氏の合気柔術は警備課員の育成には、もってこいの武術である。植芝氏も大阪に行くことを快諾された。迎えて合気柔術を習得せよ。」との手紙を送ったのでした。

この手紙からもわかるとおり、合気柔術に対する当時の当時の認識は武術なのです。武術(武道)ではなくなった戦後の植芝合気道とは一線を画すものだったのです。したがって「合気道では、まず受け身の方を大切にし、いかにうまく転ぶかを修練する」というのは「武道ではない何か」であるもののための練習方法ということでしょう。

これに関しては、江戸柳生系合気柔術における考え方を紹介しておきます。体捌と受身はセットであるべきものです。すなわち、攻撃された場合にその被害を最小限にする“危機回避動作”=体捌で、技をかけられた場合にその衝撃を最小限にする“防御反応動作”=受身なのです。体捌と受身は稽古の中で自然に身につけるべきもので、瞬時に最適な動作をとれるよう体に覚え込ませるのです。施技に当たっては「時と場所を選ばず」とされていますから、特に受身に関してはパターン化した稽古を嫌います。見た目に格好いい華麗な受身、これを否定するものではありませんが、その本質を理解すべき、と思います。

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