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新陰流考7

「電光石火」の武蔵も晩年には、
理もわけも 尽して後は 月明を 知らぬむかしの 無一物なり と詠んで剣禅一如(いちにょ)の域に達したと吉川英治はその随筆「宮本武蔵」で語っている。
 
補足説明:剣禅一如=剣禅一致の思想とは、禅で解釈した兵法(剣術)思想という意味です。流祖上泉伊勢守が達した境地を禅の思想により公案として提示し、これを引き継いだ宗矩は沢庵の助言のもと更に昇華させたといえます。研究者によれば、禅宗は体得主義を重視する自力仏教であることから、自分の実力で対応しなければならない武術家には受け入れられ易かった、とされています。
さて、剣禅一致とは技法と心法は切り離せないということですが、技法習得と仏教的修行の考え方(精神)が一致するとする表層的なものではありません。命を賭けたギリギリの状態で勝負するためには、技の修練(知をつくすの心)だけでは限界があり、相手のいかなる攻めに対しても自分の技を活用できる平常心(病のない)の心境(事をつくすの心)、すなわち煩悩を断った境地が宗教的境地と一致する、という教えなのです。
技は心を映すものであって、打たれるということは、相手の技量が上というより、自分の心が対象にとらわれている、自分自身の問題であると、教えています。例えば、体術の稽古でも技が相手に掛からないとすると、多くの場合、自分の姿勢が悪かったり、余計な力みがあったり、自分勝手に動いたりと自分の問題が原因であって、相手が意地悪している?などと考えてはいけないのです。平常心=無心の獲得を目指したいものです。(完)

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