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大坪指方先生のこと13

次に「柳生新陰流の神髄-柳生流はなぜ徳川将軍家の兵法流儀となったか?-大坪指方筆」からの抜粋です。

徳川家康が「無刀の位」の刀法と精神に感じて、即座に入門の誓紙を呈し・・・「新陰流兵法」は将軍学となり、為政者教育の原理として「御流儀」の名のもとに、長く伝えられることになった。
そして、三代将軍家光は「宗矩によって、治国の道を教えられた」といい、大老柳沢吉保また「大神君の台命(将軍の命令)にも、新陰流の道理をもって、天下を治めよと、御條目(通知)にも有之」と述べ、柳生の当主が千代田城中演武の折りに、将軍は上段を下り、右手を畳について見た記録が残されているほど尊重されていた。

新陰流兵法は心法、刀法両者相まって始めて成立するもので、上泉の理想(生命の尊重を第一とする)と、柳生宗厳(江戸では「よし」、名古屋では「とし」と読んだ)がその理想を達成すべき人物と認められ、それを成就したことにより時の為政者、ことに家康に大きな感銘を与えたものであろう。
すなわち、勝負の世界から脱した、それ以前に争わざる事、争っても自他ともに傷つかず、しこうして正しい道を体得し、神仏の心を以て人に接し、自他ともに共存共栄の生涯を、よき人生に100%生き得られる社会の建設の、一方法としての武道であること、それが殺人刀を活人剣とする方法だと教えたのである。(続)

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