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信長・秀吉・家康から史観的に大東流関係者を見ると(続-増補版)

日本の天下統一をした最初の人は豊臣秀吉である。合気道界では、植芝盛平がその天下を取ったのである。そうすると、その息子秀頼は二代目道主の吉祥丸なのである。石田三成は秀吉の下、小姓上がりであるが頭の良い男であった。これは盛平健在中、総本部で最高師範(十段)の地位を占めていた藤平光一であることはもちろんである。千利休は最初秀吉の重臣であったが、後に殺されている。他の臣下とは毛色が変わっていた。また茶道(千家流)の開祖として独自の地位を確保していたことを持っても、これは富木謙治をおいて他にない。
秀吉死後は家康に加担する加藤清正は静岡の望月稔がピッタリである。講談社より「大合気道」を出版しようとして、吉祥丸の策にはまり、出版できなくなり吉祥丸に反感を持っていて、その後の行動も清正的である。九州の砂泊誠秀は真田幸村である。
総本部にいる斉藤守弘などは本来は味方でありながら焼夷弾を抱えている状態で、差しあたり土豪(某)である。

このようにそれぞれを秀吉の臣下に割り当てることが出来る。盛平亡き後、指導権争いが盛んとなり、この中では天下を取れる者はいない。家康は誰か?筆者(鶴山先生)は最初、経団連のバックを取り付けた塩田剛三と思っていた。それで、植芝門下であった電電合気道部200余名を引き連れて塩田門下に参加したが、そうではなかったので失望したことがあった。経団連のバックも塩田の父の遺命で工藤昭四郎(東京都民銀行初代頭取)が恩返ししただけで、工藤死後は離れていった。これは塩田そのものが理論を持たない技法のみであったため、せっかくのチャンスを生かし切れなかったものである。その門下に井上強一や串田誉司がいたが同じく理論がなく塩田の演武に必要な相手役である。では、塩田剛三は秀吉史観からすると、技術があって道場も作っていることから、石田三成こと藤平光一より上の位の者、というと外様大名で実力があった伊達政宗となる。家康のように晩年になっても天下を取る能力はないと見るのが正しい。

盛平亡き後の天下取りは、戦前派=塩田剛三、富木謙治、望月稔、平井稔 対 戦後派=藤平光一、植芝吉祥丸、斉藤守弘、砂泊誠秀 の対立から、戦後派同志である吉祥丸対斉藤対砂泊の三つ巴の乱戦模様となってきた。吉祥丸は親の七光りを使って盛平百年祭を大々的に行うことで、これを乗り切ろうとしているが、やはりこの種のものは内容がものを言うだけに、盛平百年祭をやったからといって吉祥丸が後継者であると誰もが認めがたいものがある。吉祥丸が盛平百年祭を利用しようとすれば、逆に反発を買うことが予測される。

鶴山先生が書いている「盛平百年祭」は結局実施できなかったようですが、昭和58(1983)年5月に講談社から「植芝盛平生誕百年 合気道開祖」を出版しています。この本の序詞には、
「合気道開祖植芝盛平の生誕百周年をむかえた今、あらためて心に深く思うことは、(略) 合気道唯一正統にして全国組織の本流をゆく財団法人合気会関係を中心とした百万の修行者たちが、(略) 開祖生誕百周年の意義をわれわれはこぞって確認し、奉讃することが緊要であろう。(略)
        財団法人合気会 合気道道主 植芝吉祥丸」とあります。

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