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武田惣角と大阪との関わりについて2

武田惣角と大阪との関わりについて 宗家 武田時宗
5月6日に第3回大東流合気武道大阪大会が開催されるにあたって、武田惣角と大阪の関わりについて記しておく。武田惣角と大阪については惣角の高弟である植芝盛平、久琢磨の両氏と深い関わりがあるが、惣角が大阪で大東流を指導するようになるまでの経緯から記しておく。
 
昭和4(1929)年、海軍大将竹下勇が大東流を武田惣角に学び、実話雑誌に『武田惣角武勇伝』を公表し、惣角が元帥侯爵西郷従道の武道教師(用心棒)となり随行し、各地で武勇を発揮した事を記載したが、これが東京朝日新聞社の目にふれることになり昭和5年、北海道巡教中の惣角に記者を差し向けた。

補足説明:経緯の冒頭、竹下勇に関する記述は正確ではありません。
竹下勇は武術日記を残しておりそれによれば、大正14(1925)年12月から植芝盛平に大東流を習い始めたことが判ります。
12月1日(快晴)「(略)午前11時頃、浅野氏、植芝盛平、井上與一郎氏を伴い来訪。大東流柔道の形を示す。能く研究を極めたるものにして、稽古するの価値十分にあり。明日より習うことに約束す。」とあります。翌2日から14日まで竹下は自宅に植芝を招き、竹下の記載によれば大東流柔術・大東流・やわら・合気柔術の指導を受けています。大正15年以降は合気柔術・柔術と記載されています。その後も植芝の指導の下、大東流の稽古を続け・・・
昭和3年2月17日(晴)「午前、柔術稽古。本日より相生会にては相生流合気柔術と称することにせり。午後再び柔術稽古。」と、植芝による流名変更の記録もあります。
竹下は、植芝の後援者であって、後に(昭和15年)財団法人皇武会の初代会長になるなど、基本的に植芝から指導を受けていました。(続)

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