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真実とは何か

人の数だけ真実があると言って良いのかも知れない。

仮にひとつの真実 [T]1があるとして、その[T]1を見たり知ったりする人達が、どの立ち位置で見たり知ったりするかで、もう既に[T]1の捉え方が違ってくる。

捉え方が違えば、定義も意味も価値も評価も全てが変わる。

まさに『群盲、象を評す』である。
(因みに、この”諺の解釈そのもの”の捉え方もまた多彩なのだが。)

『衆瞽象を撫ず』 by 江戸時代の浮世絵師・英一蝶

[T]1は真実どころではない=ウソ・デタラメ・ペテンだと断ずる人達も、世の中には居られるだろう。
すなわち真実は相対的な存在である。
まさに、善悪が相対的であるのと同じように。

ということになると、真実探求とは、ひとつの普遍的な解答を目指すと考えないほうが良いのかも知れない。

ひとつの普遍的な解答ではなく、自分の意識が納得できる解答であろう。
なぜなら、真実は相対的に捉えるしかないからだ。

まさに『群盲、象を評す』である。

人の数だけ真実があるのは、私達自身が群盲、つまり”その程度”の意識振動次元に存在しているに過ぎないことの現れなのだろう。

絶対普遍の確固たる真実 [T]*を見たり知ったりするのに、私達の意識レヴェルでは、まだ早すぎるのだろう。

となると、現段階の私達ができることは、

1-3) ある真実 [T]Xを探求する過程を楽しむ
2-3) [T]Xを巡る議論を楽しむ
3-3) [T]Xを自分なりに構築することを楽しむ

……これらの事ごとに尽きるのではないか。

強いて言えば、まことの真実探求とは、自分自身の意識振動次元を高めてゆくことに他ならないのではないか。

なぜなら、私達が意識振動次元を高めることによって、絶対普遍の確固たる真実 [T]*に接近できる……と考えられるからだ。

だから、意識の波動がその境地に届くまで、私達の真実探求は”趣味”みたいなものか。

1-3) ある真実 [T]Xを探求する過程を楽しむ
2-3) [T]Xを巡る議論を楽しむ
3-3) [T]Xを自分なりに構築することを楽しむ

少なくとも、私達の現時点では、その程度に考え、あまり深刻にならないほうが良いのかも知れない。

すなわち『中今のこころ』である。

前や先
思い悩まず悔やまずに
中今の道
神の御声ぞ

過去を悔やまず
未来を憂えず
今このときを大切に楽しみなさい
と、神の御声が聞こえます

どうせ、まことの真実を見尽くす知り尽くすことなど、簡単にはできないのだから、そのことだけに没頭するのは、いたずらに人生を勿体なく過ごしているだけかも知れない……ってことかも、でっせ〜😇🤗

ノイローゼとか強迫障害に陥ってしまいかねまへんしな、現に相当、心が疲れ、ちぃ〜っと病み始めてしもうた人も、おますさかいに、真実探究もほどほどにして、ときどき氣晴らししてな〜🤗😇

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