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過ちては則ち改むるに憚かること勿かれ

 私は、往々にして、間違えてばかりいるので、間違えに気づいたら、すぐに撤回して訂正します。いつまでも間違えた自説を曲げないでいても、何の意味もないし、評価を下げるだけですから。それに、間違えを認め、撤回、訂正して、正しい地点から再開することで、物事は遅滞なく進行してゆきますからね。間違えを認めると罪に問われるような場合でも、たとえ逃げたところで、逃げ切れるわけでもないでしょう。間違えを認めるのは、たしかに、いっときは恥ずかしいかも知れませんが、いつまでも間違えた自説を曲げないでいるほうが、もっと見苦しくて、みっともないですよね。

論語 衛霊公 第十五 29

子曰、過而不改、是謂過矣。

子曰く、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。

先師がいわれた。「過って改めないのを、過ちというのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
論語 衛霊公 第十五 29
論語 学而 第一 8

子曰、君子不重則不威。學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。

子曰く、君子重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過ちては則ち改むるに憚かること勿かれ。

先師がいわれた。「道に志す人は、つねに言語動作を慎重にしなければならない。でないと、外見が軽っぽく見えるだけでなく、学ぶこともしっかり身につかない。むろん、忠実と信義とを第一義として一切の言動を貫くべきだ。安易に自分より知徳の劣った人と交っていい気になるのは禁物である。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ」(下村湖人『現代訳論語』)
論語 学而 第一 8

 今後は、いわゆる新型コロナウイルス感染症や新型コロナワクチンについて、もしかすると、これまで一般的に正しいとされてきた事柄の多くが、実は間違えであったと伝えられるようになり、社会は大混乱の様相を呈するかも知れません。間違えていた専門家・政治家・行政組織・メディア……etc、は、責任を負うことを避けようとして、言いわけをしたりをつき始めたり、いろいろな反応を示すでありましょう。

 その際、無意味な自己保身に走らず、きっぱりと間違えを認める潔さと、その潔さを買って、間違えを赦す懐の深さ、どちらも大切なことと思います。どちらも、『やまとたましゐ』を発揮することで、自然に、超然と、遂行されてゆくでしょう。

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 『やまとたましゐ=大いなる調和のステージにある意識と肉体』は、自分ではなく他者、他者の集合体である『おおやけ=公』のために、どんなことができるのかと、常に自問しているからです。

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一部改変
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