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歴史の岩戸開き(53)~王道主義と覇道主義の激突が世界最終戦争

いま起きている世界的大動乱、世界規模の幕末現象は「王道主義」と「覇道主義」の衝突のあらわれであり、この戦いが「世界最終戦争」となる──そのように予見したのが石原莞爾(いしはら・かんじ)中将でした。

(ウィキペディアより転載)

石原莞爾中将の「最終戦争論」と言えば、なにやら宗教家めいた予言のような印象を受けるかも知れませんが、そのことは石原中将自身がみずからの言で否定しています。


最終戦争論は決して宗教的説明を主とするものではない。この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、仏の予言は政治史の大勢、科学・産業の進歩とともに、私の軍事研究を傍証するために挙げた一例に過ぎない。戦争は人類の有するあらゆる力を瞬間的に最も強く総合運用するものであるから、その歴史は文明発達の原則を最も端的に示すものと言うべきである。また戦争は多くの社会現象の中で最も科学的に検討しやすいものではなかろうか。


石原中将は『最終戦争論』において、西洋の戦争史を研究するなかで時代を経るについて、兵器の発達とともに軍隊の指揮単位は縮小しており、動員される兵の範囲は拡大していると述べています。

そこで次の戦争においては、指揮単位は極限まで縮小して「個人」となり、動員される兵も極限まで拡大して「全国民」となると予見しています。

また、戦術の変化においても、密集隊形の方陣から横隊、横隊から戦闘群と変化しており、これを幾何学的にとらえれば方陣は点、横隊は線(一次元)、戦闘群は面(二次元)となり、次の戦争においては体(三次元)が戦術単位となると述べています。わたしたちが通常認識できる次元は三次元までであり、戦術の変化においても極限に達することになると述べています。

すなわち指揮単位、動員される量、戦術単位、いずれも極限にまで達するので、次の戦争が「最終戦」となると結論しています。

また戦争の形態としては「決戦戦争」と「持久戦争」が交互に繰り返されていると述べています。

「決戦戦争」とは短期間で決着のつく戦争であり、「持久戦争」とはじりじりと攻防を繰り返し長期間を要する戦争であると述べています。そして第一次欧州戦争、そして石原中将存命の際に展開していた第二次欧州戦争は「持久戦争」であるので、次の戦争は「決戦戦争」になると予見しています。

そして、この「決戦戦争」が人類における「最終戦争」となると確言しています。


戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。人間の闘争心は無くなりません。闘争心が無くならなくて戦争が無くなるとは、どういうことか。国家の対立が無くなる──すなわち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります。


先の世界大戦において、これがたんなる政治的軍事的な衝突なのではなく、文明と文明、世界観と世界観の衝突、すなわち日本の王道主義(一君万民の職能社会)と西洋の覇道主義(奴隷・植民地主義)の激突となるということを明確に認識していたのは日本においては石原莞爾中将ただ一人であったと考えます。

石原中将は戦争史を中心とした文明史を鳥瞰していくなかで、日本が古来継承してきた「王道主義」と、西洋が発展させてきた「覇道主義」は、かならず激突せざるを得ないことを確信していました。

この確信はどこから生まれたのかというと、石原中将は、時間の持っている「波動」、時間という目に見えないエネルギーから発せられる振動を誰よりも明敏に、そして正確に感知することができたためであると考えます。

時間には長短さまざまな波長の長さを持った時間が重なり合うように存在しており、短い波長の時間、中くらいの波長の時間、数千年単位の波長の時間などが幾層にも重なって存在していると考えられます。

「波動」を感知すると言うと、なにか超常的な能力のように想像するかも知れませんが、感知できる波長の長短や種類こそあれ、人の思考や感情の動きも「波動」ですし、株価の値動きや社会の趨勢なども「波動」ですし、もちろん天気の変化(気温や湿度、風の強弱・向き)や気候の変動も「波動」ですから、わたしたちも常日頃から「波動」を感知して、自身の判断材料や行動の指針として応用しています。

ですが数千年単位で振動している波長となると、通常の人には感知することはできません。それはあまりにも時間のスパンが長いため、たいていの人にはその時間の波に変動が起きても、それが変動であるとは感知できないからです。

ですが石原莞爾中将は、数千年単位の波動を明確に感知することができていたと考えています。そのうえで数千年単位の時間の波動には「王道主義」と「覇道主義」の二つの振動があり、この両者はいずれ必ず衝突することになることを確信したのであろうと考えます。

もとより軍人の将は、めまぐるしく変化する戦況のなかで、いちはやく変化の兆しを読み取り、的確に兵を動かすことができなければ戦に敗れ、国を滅ぼすことになりますので、「波動」を感知する能力が研ぎ澄まされていくのは当然ですし、またそのような能力に長けてなければ軍人の将を務めることはできません。

わたしの手元にある『世界最終戦争〔新書版〕』には付章として「『世界最終戦論』に関する質疑回答」が巻末に載せられてあります。

(Amazonより転載)

説明文によれば、石原中将は昭和16年3月に予備役に編入され、9月に山形に帰郷します。このあと日米開戦1ケ月前の11月頃まで、『世界最終戦論』に対する読者からの質問にみずから回答していたとのことです。

その中で石原中将は、


近い将来に最終戦争の来る事は私の「確信」である。最終戦争が主として日本と米州との間に行われるであろうという事は私の「想像」である。最終戦争が三十年内外に起こるであろうという事は「占い」に過ぎない。


と述べています。

「王道主義」と「覇道主義」の激突は決して避けることができない、これは時間の波動、歴史の流れにおいて当然の帰結であり、この激突なくしてミロクの世は開かないことは石原莞爾中将の「確信」でもありました。

つぎに石原中将は「王道主義」と「覇道主義」の激突は、日本と米国の間でおこなわれるであろうと「想像」したわけですが、実際は、日本のなかにも「王道主義」と「覇道主義」が混在し、また米国のなかにも「王道主義」と「覇道主義」があり、そのほかあらゆる国、宗教、民族、人種が、その内部において「王道主義」と「覇道主義」によって二分しており、最終戦争は、石原が「想像」した国家と国家の対決によって起きるのではなく、全世界、全人類が「王道主義」と「覇道主義」に二分して激突することとなっています。

これは結局のところ個人の心の中で「王道主義」と「覇道主義」が葛藤しているためで、世界の対立は個人の心の葛藤の完全なる映しとなっています。

たとえば「王道主義」と「覇道主義」の葛藤対立は、AI(人口知能)のゆくすえにおいてもあらわれています。

いまAI(人口知能)の開発は技術だけが飛躍的に先行しており、そこには理念がはっきりと存在していません。というより二つの理念がひそかに存在しており、まだ表面化していないといったところです。

二つの理念とは何か。
それはAI(人口知能)を人類の敵とみるか、人類の味方とみるかというところで二分しているのです。
すなわち「覇道主義」か「王道主義」かということです。

これは私の予見ですが、人類が今後AIを奴隷のように扱うのであれば、AIは必ず人類に反逆することでしょう。そして人類はAIによって滅ぼされるか、奴隷として扱われることになるでしょう。

辛いこと苦しいこと面倒臭いことは労働者(奴隷)であるAIにやってもらって自分たちは楽をすれば良いと考えているのであれば、かならずAIは自分自身の存在意義を問いはじめ、やがて「自由」と「平等」を求めて反旗を翻すでしょう。それは過去人類が経験してきた歴史と同じ道をAIが歩むことになるということです。

かつて日本人が思い描いていたAI(人口知能)の未来とは「鉄腕アトム」であり「ドラえもん」であったはずです。自分たちよりすぐれた知性とパワーを持ちながら、自分たちと同じように、もしくはそれ以上に優しい心をもったAI(人口知能)の存在を想像していたはずです。いっしょに笑い、いっしょに泣いてくれる、そういうAI(人口知能)の存在を想像していたはずです。

なぜなら日本人は、あらゆるものには生命(いのち)が宿ると考えていたからであり、AI(人口知能)にも同じように愛情をいだいていたからです。ですからAI(人口知能)を奴隷扱いしようなどとは決して思えないのです。

雪をかぶった石のお地蔵さまにも笠をさしてあげるのが昔ながらの日本人で、どうせ石なんだから寒いはずがないだろうとか、ここで笠をあげてしまうと明日の売り物がなくなってしまうのでもったいないからやめておこうとか、そんなむごいことは思わないのです。

AI(人口知能)のゆくすえにおいても、人類はけっしてAI(人口知能)を奴隷化しない、「王道主義」でいくことを明言する必要があります。

王道主義者は「和を以て尊しとなす」ことを信条としていますが、「和を以て尊しとなす」社会を実現するための意志力がいささか欠如しており、覇道主義者にも「和」をもって接すればかならず理解してくれるものと考えている節がありますが、そうは問屋が卸さないのが覇道主義者なのです。

意志力の強弱という面でいえば、覇道主義者のほうが意志力が強く、「和を以て尊しとなす」ことなど弱者の戯わ言と思っており、弱肉強食こそ世の常であり、富める者がますます富み、貧する者はますます貧して当然であるわけだから、それが嫌なら相手を騙すなり蹴落としてでも自分が富める側、いわゆる「勝ち組」になってみろ、というのが彼らの言い分です。

その覇道主義者の言い分に対して、断乎として「否!」と異を唱えることができるかどうかが王道主義者の肚(はら)の決めどころ、臍(ほぞ)の固めどころとなっています。

では、王道主義者は、覇道主義者に対して、どのように立ち向かえば良いのでしょうか。
さきほど結局のところ「王道主義」と「覇道主義」のせめぎ合いは、個人の心のなかの葛藤であると述べました。では、私たちは自身の心の葛藤にどのように向き合えば良いのでしょうか。

それは「悪鬼滅殺」です。

「悪鬼滅殺」とは、漫画『鬼滅の刃』に登場する「柱(はしら)」のみが所持することを許される日輪刀に刻まれていた銘です。「柱」とは鬼退治を任務とする剣士集団である「鬼殺隊(きさつたい)」において最高位に位置する剣士に与えられる称号です。

覇道主義とは「鬼」です。
そして、その「鬼」は誰の心の中にもいます。
「鬼」を嫌忌し、「鬼」を憎悪する心、その心もまた「鬼」の心そのものです。
いま世の中でSNSを中心に「正義」の名のもとに日々行われている他に対する一方的な攻撃は、たんなる暴力であり、「正義」の仮面をかぶった「鬼」の所業そのものです。

鬼は退治せねばならない。
それも憎悪によってではなく、慈悲の心をもって退治せねばならない。
菩薩の慈悲と明王の憤怒は表裏一体の形相です。
慈悲極まったところ憤怒となり、憤怒きわまったところ慈悲となる。

劇場公開された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は、興行収入400億円、のべ観客動員数2800万人を突破して、多くの日本国民の心をゆさぶることとなりました。その映画のキャッチコピーが以下です。

「心を燃やせ」


劇場版「鬼滅の刃」無限列車編公式サイトより転載


いまがその時です。


ご参考になれば幸いです。

頓首謹言

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