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Iを歌うこと-あるいは表現の源

英語の歌や編曲を教え始めて十数年間。

未だに、毎レッスンで尊い経験をさせてもらっている。
かつては、ひとつレッスンが終わるたびにひと記事、覚書のblogを更新していた。すべてウェブ等と一緒にクローズしてしまったけれど、思うところあり、また気まぐれに言葉にしていく。

わたしたちは、どんどん、器用になっていく。
自分より優先すべきものが増え、押し殺しているという意識もないままに、静かに個人的欲求を端に寄せる技術を身につけていく。仕事、組織、家族、小さな命といった、"のっぴらきならない"ものを守るために、そっと、自分の扉を音を立てずに閉めることを繰り返す。

とある生徒さんがいる。
昔の彼女は、好ましくはちゃめちゃだった。好奇心旺盛であちらこちらに出没してはふわっといなくなり、当時は地に足をつけることを課題としていた。

数年が経ち、意識が変わり身体が変わった。
守るものを抱えて、今はしっかと地に足をつけて歩いている。

久しぶりのレッスン。
かつて時間をかけて取り組み、すっかり彼女の持ち曲となった曲を、ウォーミングアップでさらっと歌ってもらった。
よく、伴奏を聴いている。一方で、明らかに、"与えられた枠のなかで"、器用に泳いでいる。

わたしたちは自由を恐れる。どこにでも行っていいよ、と言われると途端に俯いて、その場に立ち尽くしてしまう。
ルールに縛られたくない、と口では言いつつ、規則があることに安堵する。

音楽には正解がない。少なくとも、わたしは正解ありきで生徒さんと接したことがない。
正解がない道は恐ろしいものだ。ルールがないことは怖い。
では一体何のために、正解をつくらないのかといえば、目の前にいるこの歌い手を全肯定するためなのだ。

人生のさまざまな局面で、すっと横に置いてきた、そうせざるを得なかった、ごくごく個人的で主観的で自由でありのままの欲求こそが、表現の源だ。
なぜ、今、この曲を他の誰でもないあなたが歌うのか。
原曲のパフォーマーではなく、あなたが歌う意味はどこにあるのか。
模倣じゃないことは、前例がないことは怖いよね。でもゆっくり一緒に考えよう。

今度は伴奏なしで、ア・カペラで歌ってもらった。途端に足場が不安定になる。三小節ほど歌って、彼女は笑い出す。わたしの言わんとすることが伝わったことが、こちらにもわかる。顔を見合わせて、笑う。

はじめの"l"が歌えないのだ。
自分自身が、どこにいるのか、どこに向かいたいのか、わからなければ歌い出すことすらできない曲を、彼女は、選んだ。

曲は鏡だ。今のあなたをまざまざと写し、次に向かう場所のヒントを与えてくれる。
生徒さんたちはみな、自分にいま一番必要な曲を、確実にたぐり寄せているように思える。
曲があってよかった。だからわたしは、安心して、何も教えない先生でいられる。

この曲は、はじめの"I"さえ歌えれば、歌えるね。
一緒に探そう、あなたがどこにいるのか。これからどこに行きたいのか。

#レッスンのこと #音楽のエッセイ #音楽


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