小説を読むことの難しさ

読書というのは奥が深い。読書という魔窟に分け入ってしまったことに気づいたのは、18の時に小説を読み始めてから、15年後の33歳の今になってからだ。この歳月において、沢山の小説を読み漁ったが、この間に僕は読書から何一つ教えられることなく、ひたすらその魔窟の中で格闘を続けた。

この間に僕は少し成長したのかもしれない。ある日いつものように書店を徘徊していると、一冊の本が目にとまった。「レヴィナスと愛の現象学」というなんだか難しそうな題名の本だ。哲学書の類は苦手なのだが、「レヴィナス」という名前の響きや、「愛の現象学」というなんだか難しそうな学問と「愛」という言葉のミスマッチが僕の心にささやきかけるように誘い、僕はその本を手にとった。

すごく難しそうなのだが、そこに書かれていることは、はっきりくっきりと僕の目に飛び込んできた。長く読書をしていると、そういうことに敏感になってくる。字面が何かを訴えかけているのが、本を開いた瞬間にわかるようになるのだ。言葉遣いがすごくカッコいいな、というのが僕がその本に感じた最初の印象だった。小説以外の本にカッコよさを感じたのは初めてだった。

結局、その本と、「他者と死者」という同じく「レヴィナス論」という括りの同一著者の本を僕は購入し、その二冊をめでたく読み終えることに成功した。

人生初の哲学書通読体験となったわけだが、結局、その本を読み終えてわかったことは、「少しなりとも価値のある本とは、一読しただけではその価値がわからない本のことなんだな」ということだった。

その本自体、「難しいテクストとは一体どういう成り立ちをしたものなのか」ということを解説した本であるのだが、すごく長い筋道が通してあり、その理路を逐一理解して進むことは困難だ。なんだかよくわからないままに結論へと導かれてしまい、最後にはポカンとした「?」が沢山残される。

印象深い一節は、「読解から欲望へのシフト」(正確な引用ではないかもしれない)という言葉だった。ラカンという哲学者が難しく書く理由を、「ラカンは難しく書くことによって『テクストの語義を理解しようとするのではなく、ラカンを欲望せよ』と告げているのである」と著者は説明している。そして、テクストが人間の欲望に「点火する」仕組みをこれまた難しい議論を通うじて僕たちに開陳してくれる。

そして、欲望に点火する際に絶対不可欠なことが一つある。それは、読者がテクストの語義を一意的に確定できないこと、つまり、「わからない」というのがその条件なのである。

この「わからない」ということについて、著者は執拗に言い募る。それは著者の他の本「先生はえらい」という本でも同じである。わからない、ということがいかにコミュニケーションの根幹に深く関わっているのか、それがこの本を通じて理解し得た一つの重要な知見であった。そして、それは15年という長い歳月にわたって僕が小説を読み続けてきたことの一つの理由も明かしてくれたのだった。

要は、僕は「小説がわからない」のだ。ここに小説を読むことの面白さ、難しさは集約されているような気がする。


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