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海外の方が"いろいろな人"がいるのでしょうか

先日、一緒にアメリカの大学を目指した友達と話す機会がありました。
私もその子も、大学卒業後にはアメリカに残りたいと考えていましたが、就労ビザ取得の困難に折れ、日本に戻ってきました(もう少し話は複雑なのですが、今日のところはここまで)

でもなぜアメリカに残りたかったのか。
"いろいろな人がいるからかな"との呟きが。

ふと、別の友達との昨年の会話が頭に浮かびました。
"いろいろな人に触れるために、自分の子供もインターナショナルスクールに入れたい"

"いろいろな人"とは、どういうことを意味するのか。人の種類?多様性?人種?ジェンダー?国籍?

インターナショナルスクールを選ぶ理由はそれ以外にも多々ありますが、インター = 多様という考え方に違和感を覚えました。
むしろ家庭環境や所得の面では同じような人が集まるのでは。

日本にも、他の国と同じように"いろいろな人"がいます。
人種の割合を見ると東アジア人が圧倒的に多いのでしょうが、決して"単一民族"ではありませんし、LGBTQの方や障害者の方、低所得層の方等、多方面で”いろいろな人"がいるはずです。

日本の社会は多様性がもともとないのではなく、多様性を抑圧しているのだと思います。
前ならえ教育で、事なかれ主義で、いじめで、受験制度で個性をもみ消し、異なる考えをぶつけあったり、お互いの違いについて真剣に対話したりする機会を避け、出る杭を打って、"普通"でない人を生きづらい状況に、社会の隅に追いやって。
誰もがわかっていることかもしれないけれど、誰もがわかっているのであれば、なぜ変わらないのでしょうね。

私はせっかく日本の社会を批判的に捉えられるような価値観を育ててきたのだから、それを使って、"いろいろな人”のありのままが受け入れられる社会を少しでも作っていけないものかと思うのです。
必ずしもその批判的思考が正しいと言いたいのではなく、もっと多方面の多様性を解放することで、生きやすくなる人が増えると信じているのです。信念です。

アメリカの大学を卒業し、英語が使えて、海外で働くことも夢ではないことは、大きな特権、パワーです。
アメリカに残ったら毎日がより生きやすく感じられたかもしれませんが、ここが私の変に正義感が強いところというか、、、ただの頭脳流出になりたくないところというか、、、
このパワーを社会に還元できないものかと。
日本に縛られたくないとは思うけれど、縛られるしかない人のために何かできないかと、考えます。

多様性を可視化し、尊重し、celebrateし、抑圧からの解放を目指したい。
解放とは、一度達成するようなものではなく、現在進行形で毎日コツコツ目指すものです。

なんて大きな話、と思われるかもしれませんが、本当に目指したいのは、その先の、社会のパワー構造の変化です。
Diversity & inclusionは、あくまで既存のパワーバランスがある社会の中で多様性を認めていこうという概念ですが、そのパワーバランスを覆すような、システムを変えていくような、decolonization & reparationの方が理想的。

おっと話が逸れてしまいました。
パワー構造を覆す話は、またの機会に。
アイディア1つ1つを深く説明できていないような気もしますので、ここが意味不明、わからない等のポイントがあれば教えてください。今度書きます。

私たちは、"いろいろな人がいる"アメリカに残りたかったのではなく、"いろいろな人"がありのままでいられるようなアメリカ(※)に残りたかったのだと思います。
言葉のチョイスって大事よね。

(写真は、いつかの北軽井沢の夏。)

※アメリカも問題山積みです。"アメリカ"の中でもどの場所のことを指すのかによって状況は異なりますし、まだまだdecolonization & reparationからは程遠い。

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