舞台ボイシーSS

リロイとアレックスのある日 リロイに彼女がいる

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 少し肌寒い。
 木枯らしが足下をさらっていく。リロイは小さく身震いをした。
 アップルウォッチの小さい液晶画面は今日の歩数を示していて、ひとつ手間をかけないと時刻を教えてはくれない。
「5時」
 彼女が言った。ワンテンポ遅れて時間を確認する。正確には5時16分だった。
「5時。もう、5、時、よ」
 語気を強めた彼女の視線は咎めるようだ。
「わかってる。でも、しょうがないだろう」
 もうテラス席という季節ではないのはわかっている。けれども。リロイはこれみよがしにため息をついた。自身の作品であるティーシャツを見せつけるように裾を伸ばす。
「俺の芸術は衆目にさらされることで完成するんだ」
 リロイは片眉を上げた。
「それに」
 内緒ばなしをするように彼女の耳元に顔を寄せる。
「好きだろ、コレ。昨日も散々、さ」
 彼女は満面に呆れを浮かべた。イスにかかっていた青色のコーチジャケットを投げつける。
「バイト。6時からでしょ」
「わかってるよ。そろそろ行くか」
 リロイは空になったグラスをトレイに置き、立ち上がる。コーチジャケットを羽織ろうとしてやめた。リュックにしまい込んだ。

 リロイのティーシャツには自身のペニスが大きく印刷されている。
 そんな馬鹿げた振る舞いをしていてもリロイは許される。破天荒を芸術として昇華させる才能が、そして周りの人々に愛される環境が、彼にはある。
 アル中ではあるが両親は健在で、下世話な話題をいなしてくれるガールフレンドがいて、大学では成績優秀者として学費を免除され、教授からの信頼も厚く、友人も多い。将来はアートの世界に進みながらも、社交性と巧みな話術を活かして優れた人脈を形成することだろう。
 リロイは20年余りの人生で、己の価値を世界に認めさせてきた。そして、世界はリロイを受け入れた。
 決して大それたものではないが、リロイの人生はうまくいっていた。

「あれ、弟くんじゃない?」
 彼女が足を止めた。彼女のひとさし指がひょろりと背の高い少年を見つけていた。
「……アレックス?」
 リロイが呼びかける。声は届かなかった。アレックスの隣にはひとりの少年がいた。楽しげに談笑している。友人だろうか。リロイはアレックスの友人をひとりも見たことがない。
 いや、そんなことよりも。
 リロイは先日のやりとりを思い出す。
 音楽専攻のクラスで合宿があるからと、アレックスは両親から100ドルを受け取っていた。金曜の放課後から土曜にかけて。つまり、この時間、アレックスは長距離バスに乗っているはずだった。
「あれでしょ。例の、義理の弟ってやつ」
 さして興味はないのか、彼女はインスタの画面をスクロールしていた。例の、と彼女は言った。リロイは以前、アレックスのことをこう説明していた。
 赤ん坊の頃に親に捨てられ教会経由で家にやってきた、可哀想な弟だ、と。
「アレックス!」
 リロイが声を張り上げる。今度こそアレックスが振り向いた。
「よう、アレックス。友達か?」
 小走りで駆け寄って、アレックスの肩を組む。アレックスは一瞬、体を強ばらせたが、リロイの姿を認めるとぎこちなく破顔してみせた。
「やぁ、リロイ。デート中なんだろう。僕に構ってる暇なんてないはずだ」
「気にすんなよ。よお、俺はリロイ。アレックスの兄だ」
 リロイはアレックスの友人に手を差し出した。少し小柄な彼はリロイを見、すぐに嫌悪の表情を浮かべた。
「悪い。最先端のアートだ」
 冗談めかしてティーシャツの裾をつまむと、彼は侮蔑の目をリロイに向けた。
「アレックス。君の兄貴は随分とヒッピーなんだね。ドラッグでもやっているのかい」
「さあ、どうだろうね」
 アレックスが曖昧に微笑んだ。
 友人はひとつため息をついて、その場を立ち去った。
「……合宿、だったんじゃねぇの?」
 アレックスの友人、果たして友人であったのかリロイには判別できないままだったが、リロイは彼の背を遠くに見ながら、アレックスに問いかける。
「ああ、それはね」
 アレックスは言葉を区切ってリロイに向き合った。アレックスは背が高い。リロイを見下ろす形となった。
「日程が変更になったんだ」
 アレックスのまっすぐな瞳には迷いがない。まるで世界で自分だけが正しいような顔をしていた。
「……なら、仕方ねぇな」
 嘘だ。
 リロイは悟られぬように奥歯を噛んだ。
 アレックスは嘘をつく。これまでも大小様々な嘘をついてきた。旅行先で誘拐されたこと、担任にレイプされたこと。
 初めて告白されたときは驚いた。だが、調べればすぐに嘘と判明することばかりだった。
 トラウマを負った人間は、心の傷を現実で何度も再現するという。レイプされた女はセックス依存症になり、虐待を受けた子供は暴力を振るうようになる。だから、親に捨てられた可哀想なアレックスは、嘘をつくことで誰かから見放されようとしているのだろうか。
 本当のことなどリロイにはわからない。
 誰も他人のことなど理解できるはずないのだから。
 それでも、リロイはアレックスを信じている。
 たとえそれが嘘であろうと否定しない。
 可哀想な弟は守ってやるべきだ。
 それがリロイの優しさであり、リロイの誇りだった。

「オーケー。暇ならバイトに来いよ。ポーリーンが嘆いてたぜ。今日は圧倒的に人が足りないってさ」
「行かないよ。シフトが入っていないのに出勤するなんて馬鹿のすることだよ」
「生意気だな~。おい!」
 肩を小突くと、アレックスが目を逸らす。安堵したような、しかしどこか寂しげな横顔があった。
「ねぇ。私、本屋に行きたいんだけど。もう行ってもいい?」
 ため息まじりに彼女が口を挟む。インスタはもう見終わったのか手持ち無沙汰だ。きれいにカールした髪をひとさし指でいじっていた。
「ああ、俺も一緒に行く」
「バイトでしょ?」
「20分は余裕ある。アレックスも一緒に行くか?」
 リロイが振り返ると、アレックスは首にかけたヘッドフォンを耳に当てたところだった。
「行かない。帰るね」
「アレックス! またな!」
 アレックスは別れの挨拶を最後まで聞かない。静かに背を向けた。雑踏に埋もれても、背の高いアレックスはよく目立つ。けれども、帰る場所を知らない迷子の子供のように見えた。

 美術コーナーは2階の隅に追いやられて埃をかぶっている。リロイは一冊の図録に手を伸ばした。
「美術史?」
「うん」
 ページを開くと美術史に名を残した偉人たちがいた。シャガール、カンディンスキー、ピカソ。
彼らの多くは死後に評価された。リロイはそうはなりたくないと思った。生きている間に名を馳せたい。
「リロイ、過去には興味ないって美術史の講義取ってなかったじゃない。どうして?」
「ん~、まぁ、コミュニケーションツールとして? レパートリーを増やそうと思って」
「……ふぅん」
 彼女は納得していない様子だったが、深くたずねることもない。その距離感がリロイは好きだった。
 ぱらぱらとページをめくってゆく。
 弟のことを思った。
 彼のついた嘘はこれで何個目なのだろう。
 詮無き考えだった。
 
 *

 店内にははやりのポップスが流れていた。早足で店内を突っ切り、アレックスはいつもの定位置についた。
 ……アレックス、アレックス!
 目をつむるとリロイの声がこだまする。リロイの声は彼の正しさを主張するように理知的で、なのに感情を震わせる。怖かった。
 もう嘘はばれているのだろうか。
 いや、きっと、おそらく、もう。
 アレックスは逃れるように首を振った。
 試聴コーナーでヘッドフォンをかぶる。ヴィラ=ロボスのアルバム。耳に馴染んだ音楽が流れ始めて、ようやく息ができた。
 音楽がそばにあればいい。それだけが唯一、心安らかになる瞬間だった。
「どうせ、誰も僕を理解しない」
 かすれた声でつぶやいた。

【楽しいことなどひとつもなかった】

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