見出し画像

”アフリカンサムライ”弥助のビジュアルイメージ② ー 南蛮屏風と黒坊

下記記事の続き。南蛮屏風等に現れる黒人=黒坊について。
南蛮屏風に関しては、坂本満「南蛮屛風集成」を参考にしています。

南蛮屏風と黒坊

南蛮屏風と武装

スペインやポルトガルからの”南蛮人”の来訪を描くいわゆる南蛮屏風ですが、単一の作品を指すのではなく90種以上知られている作品群の総称です。おそらくもっとも有名なものはタイトル画の神戸市立博物館蔵の狩野内膳作のものですが、これら南蛮屏風は同じテーマで独立して描かれたという訳ではなく、別の南蛮屏風を参考に新しい南蛮屏風が描かれたらしく、人物の配置などまで共通することも少なくありません。

例えばロックリー「信長と弥助」の表紙に使われている南蛮屏風はアムステルダム国立美術館蔵の作者不詳のもの(同書内では何を根拠にしたのか狩野派作としていますが…)ですが、これは1610年代狩野派作の個人蔵のもの、と近い構図で描かれた1620年代の長崎歴史文化博物館蔵のもの、を簡略化した1630年代~40年代の個人蔵のもの、を参考に描かれたかなり後ろの世代の作品と考えられています。 

ロックリー「信長と弥助」表紙
長崎歴史文化博物館「南蛮人来朝之図(南蛮屏風)」より

上図の通り、「信長と弥助」表紙と長崎歴史文化博物館蔵の南蛮屏風(南蛮人来朝之図)の該当部分とを比較すると、服の色こそ違いますが登場人物及び構図が類似していることがわかると思います。

なお、上記の「信長と弥助」表紙のアムステルダム国立美術館蔵の南蛮屏風ではよくわかりませんが、長崎歴史文化博物館蔵の南蛮屏風では白人たちは帯剣していることがわかります。また「信長と弥助」の中でロックリー氏はアムステルダム国立美術館蔵の南蛮屏風にて一人の黒人が槍を持っているように見えることからこれを黒人護衛としていますが、長崎歴史文化博物館蔵の南蛮屏風では当該人物が持つのは旗です。同様に有名な狩野内膳の南蛮屏風でも、帯剣している白人たちが描かれており、逆に黒人は武装していません。
数ある南蛮屏風のうち、ロックリー氏がさほど有名でもなく作者も不明なアムステルダム国立美術館蔵のものを用いるのは、弥助をボディーガードとする説に都合良く黒人が武器を持ち白人が武器を持たないように見えるという特徴からかも知れません。

阿蘭陀人と黒坊

鎖国政策もあり南蛮屏風は描かれなくなりますが、後に長崎の出島を訪れるオランダ人を描く版画が製作されるようになりました。その中の一つがこちら、神戸市立博物館蔵の阿蘭陀人之図(1740年代)です。

神戸市立博物館蔵「阿蘭陀人之図」

南蛮屏風に描かれたポルトガル人たちとは服装が異なりますが、身分の高い白人のために付き人が傘を持つ構図は共通しています。ここでは「かぴたん(Capitão:船長/商館長)」、「またろす(matroos:水夫/船員)」と並んで「くろぼう」が描かれていますが、南蛮屏風と同じく傘持ちではあるものの肌の色が黒く塗られておらず、黒い肌を意味するというよりも何らかの役目を表す一般名詞のようになっています。(くろぼうの肌が黒く塗られた版画もありますので、全く違う意味になっているという訳ではなさそうですが。)

なお、阿蘭陀人咬𠺕吧黒坊という類似する絵もありますので、この時代には「くろぼう」はオランダの植民地でもあった咬𠺕吧=現インドネシアのジャカルタ出身であり、弥助のようなcafreを指す語ではなくなっていると考えられます。

「黒坊主」と「黒坊」

上記の通り、いつの頃からか「黒坊(くろぼう)」という単語が成立し一般化していることが窺えます。一方で弥助の同時代資料である一般的な「信長公記」では「黒坊主」、「家忠日記」では「くろ男」と、坊主や男という単語を黒い色で形容して表現しており、「黒坊」という一語で表せる便利な単語を牛一や家忠は知らなかったのか使用していません。
ところが弥助についての追加記述のある尊経閣本の「信長公記」では弥助のことを「黒坊主」ではなく「黒坊」と記載しています。尊経閣本の写本の元となった親本は牛一の初期稿であるという話もありますが、一度は「黒坊」という便利な単語を使用しながら後に「黒坊主」に変更するとも考えづらいです。このことから、尊経閣本「信長公記」のみにある弥助に関する記述、信長からいろいろなものを受け取った部分に関しては「黒坊」という単語が一般化した以降の写本の際の修正及び追加記述と考える方が自然だと考えられます。

おまけ

「信長公記」?

せっかく買ってしまったので”African Samurai”をパラパラ眺めていたら「信長公記」の説明がこんなことに。

Ōta Gyūichi’s laudatory biography, The Chronicle of Nobunaga, was published posthumously in the decade after Ōta died in 1613. Notably for its time, the biography was printed using a movable type printing press—

Lockley, Thomas; Girard, Geoffrey. Yasuke: The true story of the legendary African Samurai (English Edition) (p.341). Little, Brown Book Group. Kindle 版.

太田牛一の死の10年後に出版された(published)、活字印刷(movable type printing press)が使われた、というとその"The Chronicle of Nobunaga"はいわゆる「信長公記」ではなく、小瀬甫庵の「甫庵信長記」でしょうか。
歴史書のようでありながら自由に創作エピソードを組み込むスタイルという意味では確かにロックリー先生の作品は「甫庵信長記」を参考にしているのかも知れませんが、歴史資料として参考にするのは普通は太田牛一の「信長公記」の方だと思います。まさか区別がついていないとは思いたくはないですが…
そもそも「甫庵信長記」に弥助(黒坊主)のエピソードはなかったような。

本能寺の変と30人

”African Samurai”内の記述等では本能寺の変の際に信長とともに戦ったのは弥助を含み30人とされていますが、「信長公記」にはもっと多くの討死者が記録されています(御厩から4名、御中間衆24名、御殿之内26名)。なぜこのような差が出るのか不思議だったのですが、ロックリー氏は中間衆は人数にカウントしていないのですね。
おそらくこれは根拠をイエズス会の資料に求めたり「信長公記」に求めたりコロコロ変えながら弥助に従者がいたという嘘をつき続けているのと地続きで、弥助を高い身分に置きたくて低い身分の日本人など視野にも入らないということなのでしょう。
ロックリー氏の物語のことを黒い白人救世主物とか、黒いマイティホワイティとか評している人がいましたが、主役たる弥助を一般原住民よりも上の存在とする様子はまさにその通りかもしれません。そういえば原住民のトップ(信長)となぜか友人になるとか原住民技術を原住民よりもうまく使える(最強の侍)とかもこの手の物語の定番でした。海外で受けがいいのもこの辺りの定番を外していないからかもしれません。ついでにロックリー氏の物語にはない定番の一つ、その家族を殺しておきながら何故か原住民の娘と恋仲になる、は某ゲームで回収してくれそうですしね。

カルサン弥助とKurusan

来栖良夫の児童文学「くろ助」では、弥助は南蛮屏風にも描かれているポルトガル人の履いていたカルサン(calção)にちなんでカルサン弥助と呼ばれていました。(さすがに「弥助」だけでは侍の名前っぽくないので、場合によっては「カルサンどの」と呼ばれたりします。)
「くろ助」は「日本の子どもの本100選」に選ばれたのですが、その英語版の紹介ページでは、この名前が何故かKurusan Yasukeになっています。これを参考にしたのか、初期の英語版やフランス語版Wikipediaでは弥助がKuru-san(kuruは日本語で黒という意味らしい)と記載されていました。特に鳥取トム氏も襲来しなかったフランス語版Wikipediaでは大きな編集もなかったため、なんとこのKuru-san表記は本文中でも2020年まで10年以上生き残ってしまいました。
この影響か今でも特にフランス語圏ではKurusanという名前が残っており、 ”Kurusan, le samouraï noir(黒き侍クルサン)”という漫画まであったりします。(3巻のサブタイトルが介錯人なのであのネタ入ってそう。)

黒き侍クルサン 表紙 ちょっとかっこいい


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?