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偏りの螺旋

長文だし赤裸々

ハマることのないと考えていた偏りの螺旋に、私はいる。そう考えたのは今日のことだ。朝、目を覚ますと懐かしいライングループが活動していた。どうやら都知事選の話らしい。前回の都知事選でK百合Kには入れるなよと言っていた友人がしっかりとK百合Kに投票した話を掘り返され弄られていた。そういえば高校時代は政治やら経済やら国際情勢やら宗教観やらそのような話を放課後に議論していた。補修やらなんやらを終わらせて5、6人で廊下にある固定のベンチで意見を交わし合ったこと(極めて高尚な議論ではない。戦後の学生運動さながらの荒削りな議論だ。)を思い出す。あの日、僕は海にいた。友人の知力、教養、話力、理解力はすごかった。圧倒的だった。教養の嵐の海を、僕はコンパス一つで進まなくてはいけなかった。僕はとにかく話し合いにしがみつき、友人はそのしがみつく手を持ってくれていた。あのときはとにかく人に楽しませてもらった。僕も話し合いでなんとか話せるぐらいにはなっていた。なっていたとしたい。とにかく、政治の話なんかしなくなっていたなと気がついた。

私は気がつけば螺旋にいた。円錐状のその階段を上から覗くとある一点に収束するように見える。そこをひたすらに降りていく。降りる私は一人であった。私は他から吸収が止まっていた。好きな物事しか学ばなくなっていた。人と話すことは多かったがその話のほとんどが知ることである。同じものしか議論を交わさなくなっていた。周りはいい人であるが、それゆえに私は腐っていく。居心地の良い堂々巡りを繰り返す。何かを話せばそこに対案はない一党独裁だ。それを私は賢いと勘違いした。私が常に飢えていたものは話し合いだった(正確には別に誰も彼もが返答しないわけではなかったが今回は一旦、人々を全としてを捉えるので悪しからず。)。多種多様な観点から思考する。肉付けをする。こうしてより強大な集合知になる。自分もより深まっていく。しかし気がつけば私は一人である。だからこそ先日の騒動はより諦めを助長した。議論にもならないようなあまりにも醜い争い。これを繰り返すことは私にはできない。だから何もかも呆れ、諦めた。私はぬるい水溜りのある階段を下る。この階段はあと何段であろうか。

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