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私は自分の道(一生)を身命で、方向性を決めてきました。皆さんも同じかもしれません。

高校生の時になりたい職業は警察官か自衛隊員か○道でした。偶々出入りする組事務所の一階がクラブだったので、学校休みに入ると興味のあるバーテンダーを率先してやりました。勿論、其れ以外は朝練・勉強・部活漬けの毎日です。一応は進学校でしたから(笑)

実家隣の縁者(柿元のオジキ)が鹿児島○桜○家の幹部だったので、高校卒業後は子分に付くつもりでいましたが、オジキが出所する兄弟分を出迎えに行った帰り、運転手の居眠りで事故死されました。オジキ本人も○人罪で15年間服役して2年目のシャバでした。

私もショックで柿元のオジキがこの世に居ない以上、鹿屋に拘る必要はないと考え、大都会のヤ○ザ志願で東京に1年間、関西に流れて2年目で姫路の親分に付くことを決断した矢先、4代目○中組長が○争で命を落とされて頓挫、仕方なく京都映画界を経験し、成り行きで西成の手配業・飯場業界に身を投じました22歳でした。

西成での出来事は前回の投稿通りです。現在は祈祷家ですが、後悔はありません。

祖母の口癖が「新聞に載るなよ」でしたから、腹は立ちますが歳を重ねる度に、現在は感謝しています。

元々、私は臆病ですから喧嘩しても、思いっきりが出来ません。

相手に怪我をさせたらどうしょうとか、気遣う自分が其処にいたからです。一応手加減はしますが、喧嘩ですから相手は無事では済みません。いつも大怪我させていました。だけど○しません。

15.16歳の未成年者で先々○道なら○してもよかったと思いますが、でも手加減する自分が其処にいたのです。

この頃はまだ気付いていませんが、これでは本物の○道にはなれません。

親兄弟親戚に迷惑かける事を考えただけで、身がすくむのですから○道失格は仕様がない。

だから、私の心中では喧嘩内容に問わず、得物(武器)は用いないと決めていました。

幼い頃からゴロ(喧嘩)は、誰であろうと素手(ステ)・ゴロです。私が師事した侠客は皆 素手1本と度胸で立ち向かっています。

柿元のオジキも、ヤ○ザ同士の争いの○人罪で15年の服役でしたから出所後は恐すぎて近寄りがたい顔役になり、忙しくされていました。

しかし、出所後2年目の呆気ない事故死には誰もが驚き、敵対視していた方々が、どれだけ喜んだか想像は付くと思います。

生命とは何でしょう?今だから分かりますが、私は生き抜くための基(原因)だと思っています。

命の基に心(人間の核)があり、身魂のバランスで万物は何十億年の時流を経て、進化(変化)したと考えると、気遠くなります。

自分の長年の経験・行動・思考によって、生き方(生活の選択)を決められるのが人です。これが万物の霊長と言われる所以でしょう。

これが今回のテーマ「命」です。
人間哲学も「命のあり方」です。
「キリスト」・「釈迦」も、自分の生き様で、我々に悟り「身命」を表現しています。

キリストは予言をして、ゴルゴダの丘で、十字架に磔され復活しました。

釈迦は、相手に対して表裏のない心で接するおもてなし「接待の精神」を説きました。

釈迦国へ帰国途中のチェンダで、きのこ料理の接待を受けた釈迦一行は、きのこ毒の食中毒で激しい腹痛と下痢に遇い、釈迦(ブッダ)は息絶えます。

接待側も釈迦に取り返しがつかない事をしたと詫びますが、釈迦は接待心が大切と赦したと経典にはあります。

私は先人の知恵(教え)は、文言(経典)ではなく、先人等の生き方だと考えています。

我々は先人の生き様を識る事で一生(道)を判断出来ます。 そして より良い最期を迎えなさいと。

これが仏法で言う不惜身命の覚悟であり、イエス・キリストの身命を賭すではないでしょうか。

生きるのに欲得も善悪もなく、己の信念を貫く姿勢こそが先人が求める悟り、先人からのメッセージだと私は思います。

人に生まれたら世俗に惑わされる事なく、細々と自分で決めた道を一生懸命に駆け廻る。そして、寿命が尽きるとき、潔く感謝できる終わり方でありたいと思う。人の一生に四の五はないから 徳

今日はここまで。我が友


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