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「願いを叶えるために祈る」をやめること

※このブログは友と木星(わたし)との往復書簡日記です。

小静ちゃん。サン。
少し力を貸してくれないだろうか。
わたしは今、傍目には小さな、個人的には大きな壁にぶつかっている。

今起きていることをシェアするから、突破口を見出してもらえないだろうか。

引越しした矢先、愛猫が窓から逃げてしまった。

脱走してすぐに貼り紙をし、村落を探し回ったけれど見つからない。

留守中、戻ってくるかもしれないと思い、玄関のドアを少しだけ開けて出かける。すると帰宅後、猫トイレにウンチがあった。

泣き崩れるほど喜んだ。

猫の姿はなかったけれど、元気で生きているならそれでいいと思えた。

毎日天に、彼が戻ってくるようお祈りをしていたから、見えない存在たちにも何度も感謝を伝えた。祈りが通じたと思った。

けれど数日後、思いもよらない事実が判明する。

細く開いた玄関ドアから、よその猫が入り、用意しておいた餌を食べている姿を見つけたのだ。てっきり我が家の猫が出入りしているものと思ったら、近所のノラが何かを嗅ぎつけ、入って来ていたのだ。

愛猫がいなくなって5日目のこと。わたしはぼうぜんとした。

飼い猫が脱走した場合、捜索は早ければ早いほど、見つかる可能性が高いと言う。その貴重な初期の5日間を、「家の場所が分かっているのだから大丈夫」と、ほとんど探すのをやめ、自宅で待つスタンスにしていたのである。

大袈裟でもなんでもなく、わたしは絶望的な気持ちになった。

我が家の猫は、わたしが病気で動けないときから、いつも側にいてくれた。音楽を使ったヒーリングを受けたときも、施術者が、つんざくような大音量で音を出したにも関わらず、猫はわたしの身体にぴったりとくっついて離れなかった。

聴覚の良い彼には、とてつもなく大きな音だったはずだ。

泣いているとき、家族とケンカしているとき、彼はすぐにわたしの側にやってきて、ニャアニャアと優しくなき、身体をくっつけてきた。苦しいときほど、激しく泣いているときほど、彼はいつもかたわらにいた。

あれほど病弱でメンタルの弱かったわたしが、今こうして元気に仕事や家事をこなせているのは、彼のおかげも大きいのだった。

わたしは天に怒りを感じずにはおれなかった。

「あれほど、あの仔が無事帰って来れるようにお祈りしたのに、まるで嘘をつくみたいに、まぎらわしいノラ猫なんかを行き来させて…」と思った。

そうしてまた、愛猫との再会を懇願するような想いにさいなまれ、彼を捜索し続ける日々が始まった。

わたしは伴侶に尋ねてみた。
「いったいなんでこんな事になったのか。
ノラ猫なんて近所で一度も見たことなかったのに、猫トイレにウンチまで残して不自然すぎるよ。何が起きてるのかガイドに聞いてみて」と。

伴侶は職業にこそしていないけれど、なかなか優秀なサイキックリーダーだった。けれど彼は首を横に振った。残念ながら、今回のことはよく分からないと言うのだった。

愛する猫がいなくなって7日目に差し掛かったとき、わたしはふと思った。

「いつの間にかわたしは、願いを叶えるために、お祈りをしていたんじゃなかろうか」

2024年の元旦に地球ヒーリングをし、地球と同機するような感覚に震えて、以来お祈りが習慣になった。
今、こうして生かされていること。
日々の豊かな食の恵。
雨つゆしのげる素敵なお家。
健康な身体。
その、なんでもない「今ここにあるもの」に喜んで、感謝の祈りを捧げ続ける。

そうして、膨大なときを感謝の祈りで満たしていくと、不思議と小さな願い、大きな願いが叶っていく。

自らの身体や心。
取り巻く人や草木や動物。
ガイド。
神。

そのすべてに、心深くから感謝を捧げることが、これほどパワフルに「豊かな現実」に影響するとは、祈りを習慣化するまでまったく実感できなかった。

別に願いを叶えるために祈ったんじゃない。感謝が溢れ出てくるから祈ったのだ。

そうしたら、驚くような速度と正確さで、あらゆる願いが叶っていった。ただそれだけのはずだった。だけど。

愛する猫が消えてしまって、まぎらわしいノラ猫の出現とか、そのとき天に毒づいたわたしのセリフとか、そう言うものを繋ぎ合わせていくと…。

わたしはいつしか「願いを叶えるため」にお祈りをしていたのかもしれなかった。

たとえ、自分自身が最善と感じることが起きなくとも。「こうなって欲しい」と強く願ったことが、ほんの少しも具現化されなくとも。

世界はわたしを愛している。

到底受け入れがたい現実も、神の目から見れば「最善の一手」がほどこされ、その一手は溢れるような愛に満ちている。

「あなたは、そう信じることができていますか。あなたの感謝は〝真心〟でしょうか」そう天に問われているような気がしたのだ。

わたしはこの気づきを伴侶にシェアした。
すると伴侶は「そうなんだよね…。ガイドに尋ねても『起きていることを無条件に受け入れなさい』としか返って来なかったんだ。今、あなたが言ってることが僕のリーディングの答えだった。
だけど、あなたには受け入れ難いと思ったから分からなかったと答えたんだ」と言った。

ああ、やっぱりかと思った。けれど同時に、あまりの難しいテーマに本当に泣きたくなった。わたしは我ながら「まずいな…」と感じるほど「絶望感」にさいなまれていた。

絶望とはつまり、世界への不信である。

絶望感ほど心を病ませるものはなく、名なき者の餌食になるものはない。それが分かっているのに、最愛の猫を失った悲しみを、彼の安否を心配する気持ちを手放して、天を信頼し、成り行きにまかせることがどうしてもできない。

猫が帰って来ると、ポカンと根拠なく信じたいのに「仮に帰ってこなかったときのダメージ」を想像すると、怖くてとてもできない。

たとえ戻らなくとも「これが(彼にもわたしにも)最善なのだ」と信じることも、今のわたしにはまるでできない。(こう思うことが出来ないから、「戻って来ると信ずることがメンタル的にひどくリスキー」とも言える)

ガイドがもたらしたこの難解なテーマを、わたしはどのようにして受け止め、いったいどうしたらいいのだろう。どうか、小静、サンの力を貸してはもらえないだろうか。

木星より。


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