ポエトリーリーディングってどういう人が聞きにくるの?

ポエトリーリーディングってどういう人が聞きにくるの? やっぱり朗読好きの人がくるの? と聞かれて、言葉を失う私であった。

ふと浮かんだイメージは、ナツメロ愛好会の人たちだ。(そういう集団が、各町にひとつくらい、きっとある、はずだ)あの人たちは、たぶん、ナツメロが好き、という一点のみで人とつながれる人種ではあるまいか。
たとえば引っ越したばかりの町で、あなたがナツメロ好きなら、毎週木曜の夜に公民館の会議室Aで開催されているナツメロ愛好会の会合に、きっと行くだろう。

ロックが好きな人も、けっこうロックという共通イメージを大事にしているように見える。ロックフェスで、堂々とバスタオルに小さしフェイスタオルに大きいしな的なサイズのタオルを首に巻き、バンド名が胸に描かれたTシャツを着ることができる人は、立派なロック愛好家だ。
彼らにとって、それがロックかロックじゃないか、というのはかなり重要なファクターを占めるようだ。たとえば巷では、グ●イがロックかロックじゃないか、なんて論争が繰り広げられているかと思うと、ゴッホはロックだけど、モネはロックじゃない、なんて意見まであり、ロックは音楽のジャンルではなく、概念とか、本質的なものみたいよ? でもさ、ここで論争している人たちの言葉にあまりロックって感じないよね。まっ、それもイメージ。

ロック愛好家に比べて、演歌を愛する人たちは、もっとおおらかな気がする。吉幾三が『俺ら東京さ行ぐだ』をリリースした時、あんなのは演歌じゃないよ、とバッシングが起きたという話は聞いたことがない。

なんか話が錯綜してきたが、ポエトリーリーディングのライブに来る人たちに共通点というのはあるのだろうか。あるかもしれない、ないかもしれない。わからない。私はすでに内側にいる人だから。
そもそも音楽の愛好家と、ポエトリーリーディング好きな人を比べるのが間違いだったのかもしれない。
ドレミは万国共通だが、言葉は違う。同じゾウという言葉でも、思い浮かべる像(ギャグではない。ちなみにンデベレ語でも象はゾウという)は人によってちがう。ましてや抽象的な言葉ならなおのこと。愛ってなんなのだろうか。

実は私は、世の中のすべては詩からできていると信じている。
同時に、万人にとっての詩というものも存在しないことを知っている。
すべては自分の中で起きることで、それ以外のことに興味がないといっても、戦争は起こらないと思う。
私は、読まれる詩が引き起こす、小さな変化に敏感でいたいと思う。
聞き逃したくない声がある。
隠された声がある。
それに出会うことができた時、それは幸福な驚きを私にもたらす。

楽しいことをしていきます。ご一緒できたら、ほんとにうれしいです!