見出し画像

言葉の旬について(「はせ通信」9号より)

ウリポ・はせ・カンパニーさんの出している「はせ通信」9号に、自分の詩「春の詩」についての文章を載せていただきました。

「声に出したい詩」「演じたい詩」「遊びたい詩」等を一篇選んで、それについて書いてください、という依頼でした。
普段自分の詩を朗読しているのに、いきなり他の方の作品について書くのには違和感があったので、僭越ながら、自分の詩について書くことにしました。

はせ通信はウェブ版がまだないので、許可をいただいて、こちらに自分の書いた文章のところのみ全文を載せたいと思います。

ちなみに文章内で取り上げた自分の詩は「春の詩」で、こちらでお読みいただけます。


「言葉の旬について」

旬というものがあります。

野菜や果物の旬はとても短いそうです。2~3週間くらいでしょうか。うちから歩いて20分くらいのところにプラム農家さんがあるのですが、あるとき「まだあるかな」と思ってプラムを買いに行ったらもう売っていませんでした。

暑い中、がんばって歩いて行っただけに、とても残念でした。その農家のプラムは、もうどこに行っても売っていないのです。食べられないのです、来年になるまで。そして来年を無事に迎えられるか、来年もその農家がプラムを作ってくれるかどうかは、来年になるまでわからないことなのです。

大げさな、と思いますか? でも、旬ってそういうことだと思うのです。

言葉はいつ味わってもいいし、決まりはありませんが、本当は言葉にも旬があると思います。今、このとき言わなくてはどうする、という言葉の旬。愛の告白はタイミングが大事です。

今回選んだ詩「春の詩」は2年前の3月に書きました。この詩を書いた背景にはある歌があります。当時、娘が卒園を控えており、保育園にお迎えに行って毎日のように「冬のおわりの」という歌(木村次郎作詞丸山亜季作曲)を耳にしていました。こんな歌です。

ふゆのおわりの はるのはじめの
そのさかいめの ひとひ ひととき
てんをつきさす ぞうきのはやし

毎日どろんこになってもみくちゃになって遊んでいた子どもたちは卒園の時期を迎え、顔つきが少し変わってきます。その子どもたちの成長を季節の移り変わりに重ねて、じーんとしてしまう歌でした。

思えば、春は意外と残酷な季節です。この季節、張り詰めた空気のなかで聴こえるのは春の息吹であると同時に、冬の断末魔でもあるのです。

かたいつぼみから花がひらくというのは、並大抵のことではないのです。当然、痛みも伴います。「春の詩」は、「冬のおわりの」にインスパイアされ、そのエネルギー、爆発感を言葉にしたいと思って書いた詩です。朗読するとき、「ビヨーーーン」というところは、空中でデコピンをするように指をはじきます。

この詩の旬は、日本の関東地方の早春です。なにかが萌え出てきそうな気配はあるのに、まだ空気は冷たく、雑木林のどこを見ても色がない風景。卒園式を境にもう二度と今までと同じようには遊べなくなることを知ってか知らずか、日が暮れるまで園で遊び続ける子どもたち。

私の詩には「稲穂が黄色くなり始めた秋口に読みたい詩」「ヘビイチゴがなり始めた新緑の季節に読みたい詩」など、旬を限定する詩が少なくありません。ぴったりのタイミングで読めると、旬の食べ物を味わったように満足します。

言葉には「旬を取り戻す魔法」の力もあります。いつでも読み始めれば、その言葉が旬だったときに戻ることができるのです。

これから先、「春の詩」を朗読するときも、あの風景を思い出すでしょう。誇らしいのにきゅっと胸がつぼまるような想いと共に。それでも「咲かざるを得な」いと腹をくくって、歩み進めることを、自分で決めるのです。

**
いささか季節外れではありますが、「春の詩」は私にとってけっこう大事な詩だったので、こういった文章を書く機会をいただけてありがたかったです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

楽しいことをしていきます。ご一緒できたら、ほんとにうれしいです!