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他者を「判断しない」生き方

こんにちは(*'ω'*)

ついつい他人を判断・評価してしまいます。無意識レベルで。服装、しゃべり方、たたずまい、見た目年齢、名刺に書いてある肩書……直接会ったことがない人に対しても、噂とかで。そんなこと、日々当たり前にしていることだし…。でも、その「判断」が独り歩きしてしまうと少々問題なのかも!?


私たちの中には二人の自分がいます。

「愛」の自分と、「エゴ」の自分です。

私たちは「愛」の自分で、家族や仲間たちに囲まれ、お互いがお互いのために助け合って生きているとき、至上の喜びを感じます。

私たちのマインド(=思考)と肉体が愛の目的において一致しているからです。

そこには何の疑問点も、都合の悪いことも、不誠実なこともなく、全てが合点のいく状態であるため、平和です。

★ ★ ★

ですが、一方で、「エゴ」は思考を使って、ある習慣を私たちに押し付けてきます。実は私たちは、普段からその習慣を無意識レベルで行っています。

エゴが私たちに押し付ける習慣とは、具体的には、まず、マインド(思考)と肉体によって、目の前にいる相手を「瞬時に判断」します。たとえ肉体の五感になんらかの障害や不便があったとしても、私たちは誰かと対面する際、常に「判断」しているものです。「今度会う人はこういう人かもしれない」とか、もう何年も会っていないにも関わらず「あいつは元々こういうヤツだ」とか、そういう判断が常につきまといます。極端な話、私たちは自分たちの肉体とマインドを通して、お互いが既に作り上げた「既成概念のぶつかり合い」をしているようなものなのです。私たちのマインドと肉体ができることといえば、五感で感じる様相に「判断・評価する」ことです。これは典型的なエゴの表れです。そしてエゴは、相手の状況を考慮して判断する(言い換えると、「相手優位の判断を下す」)、また、相手の良い点のみに焦点をあてて判断する、ということを嫌います。

こうして私たちはいつもどこかで、意識的にも無意識的にも、「この人はこうだ」という判断を下しながら日々を生きています。私たちが息苦しく感じる理由の一つは、この「判断」が原因です。自分の判断基準によってまわりを裁いていくので、最終的には状況がどうであれ、「どいつもこいつも」となり得てしまい、「判断」している本人が孤独に追い詰められていくことになります。

もっと分かり易く言うと……エゴの自分は、身近な誰かに対して、「判断」することで少しずつ排除していき――ここで言う排除とは、本来のその人を見ようとしない、受け入れない、という意味で使います――、最終的には全ての人たちを排除しようとする(受け入れ難いもの、自分とは相容れないものとする)ものです。

何故なら、エゴから見た他の人たちは、自分自身ほど特別には思っていないからです。このエゴの「自分以外は、自分ほど特別ではない」という性質に振り回されている間は、誰も自分が「愛」であると気づくことはできません。そして、本来の「愛」を実践することもできません(たとえ自分では実践していると思っていても)。自分優位の「判断」を通して相手を見るので、ありのままの相手を受け入れる、ということができないからです。

このように、エゴは私たちに、むやみやたらに「判断」しては裁く行為を推奨します。すると、私たちは孤独に追い詰められていく他に、本来の愛である生き方とは真逆に生きるために、罪悪感を作り出していくことになります。そして、罪悪感があることによって、正常な思考(純粋な愛の目的のための思考)が妨げられ、よりエゴが働きやすくなってしまいます。

ラクシュミ

『奇跡的な許し方』(知玄舎、2019年)より


エデンの園で平和に暮らしていた男女の神話(寓話)は有名ですが、彼らはなぜエデンの園を追放されてしまったんでしょうか。神さまが「食べてはいけないよ」と言っていた【知恵の実】を、蛇にそそのかされて食べてしまったようです。別名「善悪の実」。尾田栄一郎さん『ONE PIECE』に出てくる悪魔の実(食べた人は、特殊能力を授かる代わりに、海に嫌われカナヅチになります)のような名前です。蛇曰く、「これを食べると目が開けて、神のようにものの善し悪しがわかるようになるんだぜ」。二人が食べると、んまぁ、わたしたち裸(=ありのままの姿)じゃないの!と気づいて、木の枝かなにかでプライベートゾーンを隠すようになります。見栄や嘘、疑心暗鬼のはじまりです。

現実世界には、知恵の実を食べる前の男女のような人物は存在しないか、いるとしたら年齢が一桁の人たちの中か、というところでしょうか。まだ世に知られていないだけで、ひっそり何処かで暮らしているでしょうか。

ラクシュミさんは続けます。

「私たちは、《判断》を入れながら生きる限り、孤独へ向かい、また、罪悪感を温存する生き方になってしまいます。逆を言えば、罪悪感を手放して幸せに生きるためには《判断しない》(特に、自分優位に判断しない)というのが一つの大きなポイントです。《判断しない》という状態が、いつでも人や自分をゆるしている状態、つまり《愛》の状態なのです。」

…どうしても判断しちゃう場合は、最終判断を先延ばし・保留にする、一人ひとりが多面的だから自分はほんの一部しか知らないことを頭の片隅に留めておくなど、「こうだ!」という断定を避ける方向でいけばいいかしら。

Don't judge, Accept yourself and others ☆

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